最終更新日:2022.09.27
尚巴志王即位600年記念シンポジウム「遺跡から尚巴志の生きた時代を考える」は第2部の討論に入っていきますが、この討論司会の大役を担ったのは沖縄県立芸術大学の森達也先生で、3名の報告を受けて会場からの質問の投げかけと、そして報告の中でポイントになる15世紀前半のグスクの変化と第一尚氏との関係について丁寧にまとめていただき、盛り上げてもらいました(写真1)。
とくに注目されたのは首里城から出土している瓦の議論でした。察度王統の頃には首里城や浦添グスクにて高麗系瓦や大和系瓦で葺かれた建物が存在していたのに、第一尚氏が入った首里城には瓦葺の建物が無かったのではないかという疑問が司会から投げかけられ、思紹と尚巴志が首里城へ入る前に根拠地としていた島添大里グスクでは上記の瓦が発掘調査で出土していないことから、察度王統の瓦葺建物を思紹と尚巴志は前王統の象徴と見なしており、それを断ち切るためにあえて瓦葺建物を建造しなかったのではないかという、見解が出されました。
確かに山北の拠点である今帰仁グスクや山南のもう一つの拠点である南山グスクでは高麗系瓦、大和系瓦は発掘調査で出土していないことから、中山の察度王統が瓦を採用し、それで葺いた建物を権威の象徴として扱っていたという理解が成り立ちます。
また、山北の拠点である今帰仁グスクと山南の拠点の一つである島添大里グスクの中枢部で行われた発掘調査の成果では、15世紀前半に大きく改変が行われていることから、第一尚氏がそれらのグスクを再利用する際にそれまでの王統による施設をそのまま利用するのではなく、全く異なる仕様で造り変えたのではないかという論点が挙がりました。
これについては今帰仁グスクでは14世紀代の主郭の改変に比べると、15世紀の改変は大きな改変ではないとする意見や首里城にみる14世紀後半代とされる礎石・基壇建物の年代観についても、発掘調査報告書で出されている年代と齟齬があるのでどのように評価するのかといった点が課題として挙げられました。
ただし、第一尚氏が今帰仁グスク、島添大里グスク、首里城に入る、もしくは管轄する時期に各グスクの中枢部が改変されている点については、思紹と尚巴志以降に王城でない新たな意味が今帰仁グスクと島尻大里グスクに与えられ、首里城では新たな権威を象徴する建物がつくることで王統が交代したことを広く示したものと見ることができます(写真3、4)。
(写真3左:第一尚氏の時期に建てた今帰仁グスクの礎石建物跡)
(写真4右:奥に見えるのが尚巴志の時期に建てられた首里城正殿建物基壇)
今回のシンポジウムは尚巴志王が即位して600年を記念して開催されたことから、尚巴志の偉業を中心とした話が聞けるものと思い、参加された方も多くいたかと思います。そういった方々には写真5にありますようにおきみゅーのエントランスにて『英雄 尚巴志展-始まりの統一王-』が9月21日から行い、尚巴志の逸話を紹介する予定ですので是非ご観覧していただければと思います。
話を戻して、このシンポジウムでは単に尚巴志の人物像を中心にしたものではなく、当時の遺跡の情報からいかに尚巴志が生きた時代が読み取れるのかという点が主なテーマとして設定していました。
尚巴志は1420年代に三山統一を成した英雄として多くの逸話が残されています。その大半は後の時代に記された文献であることから、真実をそのまま伝えているとは言い難く、多くの脚色が加えられていると考えられています。そのようなことから、後世に書き加えられた尚巴志の人物像をどのように取り除き、真の人物像が見て取れるのかは歴史学者によるこれからの仕事になってきます。
まとめると今回のシンポジウムのように回り道をしながら尚巴志の実像に迫っていくことも、重要な視点であると個人的に感じました。
主任学芸員 山本正昭