1. 尚巴志による三山統一の礎

尚巴志による三山統一の礎

最終更新日:2022.09.27

1.尚巴志王即位600年記念事業で思うこと

 今年は沖縄県本土復帰50年ということで、様々なイベントや展示会が当館だけでなく、様々な施設や機関で行われてきました。令和4年も残り少なくなってきた今ではすっかり落ち着いてきた感があります。
 一方で今年は尚巴志が国王に即位して600年という節目の年になりますが、沖縄県本土復帰50年の陰に隠れてか、沖縄県内のメディアでほとんど取り上げられず、また、県内の博物館でも展示会などのイベントで取り上げられることはありませんでした。
 尚巴志は3つの国に分かれていた沖縄本島を初めて一つの国にまとめ上げた功績があり、沖縄の歴史を学んでいく上で無視できない人物です。よって、この節目の年に尚巴志について全く触れないということにうしろめたい気持ちがありました。そこでおきみゅーと沖縄県立博物館友の会が主催して9月21日から10月10日まで、当館エントランスにて『英雄 尚巴志』展という小規模展示を行っております(写真1、2)。
 この展示では尚巴志の生涯について触れていき、そして彼を支えた、もしくは立ちはだかった人々を紹介し、更に由来の深い史跡について取り上げています。この展示を行うにあたって、様々な角度から尚巴志に関して調べたのですが、一つ興味深い点があったので、ここで紹介していきたいと思います。
展示の様子➀ 展示の様子②

(写真1左:展示の様子➀)
(写真2右:展示の様子②)

2. 尚巴志の祖父から尚巴志までの人間関係

美里子の屋敷跡に建つ美里殿(南城市)
写真3:美里子の屋敷跡に建つ美里殿(南城市)

 尚巴志の祖父にあたる人物、鮫川大主は伊平屋島の出身で、島を追われて現在の今帰仁村今泊、更に現在の南城市佐敷に移り住んだとされています。佐敷に住み始めた頃は魚売りの商人として生計を立てていましたが、地元の有力者である大城按司に見いだされ、その娘を娶ることとなります。有力者の後ろ盾を得たことで佐敷の地で力を蓄えていくことになります。
 そして、その息子である苗代大親は佐敷を根拠地とする美里子の娘を娶ることとなります(写真3)。そして、この娘と苗代大親の間に生まれたのが尚巴志になります。その後、佐敷按司となった苗代大親は佐敷グスクを根拠地として、佐敷周辺を治めていきます。
 1372年に生を受けた尚巴志は父から佐敷按司を引き継ぐ際に沖縄本島中部の有力者である伊覇按司の推挙を得ています。これは佐敷按司への引継ぎは、有力者の後ろ盾が無いと佐敷周辺の有力者は認められなかったことを意味します。
 

3.尚巴志が成り上がっていくための基盤。

 あくまでこれらは伝承上の話ですが、鮫川大主、苗代大親または思紹、尚巴志の3代は何れも有力者からの支援を得て、地盤を固めていることが分かります。そして、尚巴志は伊覇按司の娘である真鍋樽を娶って、両者の関係を深めていきます。有力者と姻戚関係を結ぶことで地域の統治を円滑にさせ、周辺に散在する他の按司に対しての発言力を高めていくといった状況へと繋がっているように思われます。
このように三山が鼎立していた時代に成り上がっていくためには、日本の戦国時代に見られるような政略結婚が一番の近道だったようにも見て取れます。
 そして、更なる疑問として沖縄本島南部に位置する佐敷の按司となった尚巴志の後ろ盾として、なぜ同島中部の有力者である伊覇按司が現れたのか、という点があります(写真4)。残念ながら、この疑問に対する明確な答えは今のところ出ていません。しかし、推測ではありますが伊覇按司は沖縄本島北部を領域とする山北王の子孫とされていることから、尚巴志の祖父である鮫川大主が伊平屋島や今泊に住んでいた時期に、すでに何らかの関係を持っていた可能性があります。

伊覇按司が拠った伊波グスク(うるま市)
写真4 伊覇按司が拠った伊波グスク(うるま市)
 

 

4.「奇貨居くべし」を体現した伊覇按司

 14世紀後半にはすでに山北、中山、山南という3つの国が存在し、その後1406年に中山王である武寧、1416年には山北王である攀安知、1429年に山南王である他魯毎が斃れて尚巴志による三山統一が実現します。こちらもあくまで伝承になりますが、伊覇按司およびその子息たちは三山統一に向けて戦の最前線で活躍したとされていることから、尚巴志が佐敷按司になった前後から三山を統一するまでの約40年間において、一族全体で力添えをしていたことが窺われます。
 このように見込みのある人物を見出し、全面的にバックアップした伊覇按司はまさに尚巴志を奇貨と評価し、それに居いたと言えるでしょう。

主任学芸員 山本正昭

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