沖縄県立博物館・美術館の第6代館長を拝命しました園原謙と申します。県外出身だとよく間違えられますので、はじめに簡単に略歴を紹介させていただきます。
「園原」の名字は沖縄では珍しいですね。祖父が長野県木曽(現在は岐阜県恵那市)の出身です。木曾山林学校の第一期生であった祖父・咲也(1885-1981)が種子島の学校の教諭を経て鹿児島県から沖縄県庁へ出向し、一時期技手(現在の農林技術者)として国頭村佐手の県有林(国頭間切は王国時代の杣山があった)の管理をしていました。そのため、国頭村辺士名に居を構えました。父は佐手の山で生まれ、辺士名出身の母との間に四男をもうけ、その三男が私になります。本島最北端の高校・辺士名高校出身です。その後、琉球大学で学び、卒業後、糸満市摩文仁の旧平和祈念資料館を皮切りに学芸員生活を始めました。
平和行政、文化財行政や博物館行政に長年携わってきました。その中でも、学芸員になって個人的な役得のエピソードを紹介します。祖父は戦前に沖縄県庁で勤務し1917年に植物学者でありプラント(植物)・ハンターであったウィルソン博士が来沖の際、県内の大木や沖縄らしい植相のある場所を案内しました。偶然にも2017年に当館でウィルソン展(写真展)を開催した際は、奇遇にも100年前の若かりし頃(32歳)の祖父に出会えたことは感動でした。この種の体験は個人的な出来事ですが、資料と向き合う学芸員には、このような感動や発見や心躍ることがあります。そして、その感動を来館者へつなぐことが学芸員の仕事のひとつです。
旧平和祈念資料館で務めて8年後、県教育庁に入庁し、文化財保護行政(文化課)で三線調査、染織調査をはじめ海外流出文化財の調査(米国、ヨーロッパの博物館・美術館の沖縄関連調査)、工芸技術(無形文化財)、博物館指導、さらには新博物館づくりなどに関わってきました。そのためこの施設には強い愛着を持っています。
開館から19年を迎え、施設は老朽化が進む一方、収蔵資料を守るための温湿度管理や設備更新が不可欠で、運営費の負担が増しています。また、学芸員の採用難や人事の硬直化など、専門職の人材育成も大きな課題となっています。学芸員は資料の価値を翻訳し伝える役割を担いますが、業務の多様化と大量の業務量や質を問われるあまり忙殺され、収蔵庫で大切に保管する資料と対話(調査)をする十分な時間がとれていない実情があります。さらに、改正博物館法により、地域連携、文化観光、DX推進など新たな役割が求められ、博物館・美術館は地域社会の重要な文化拠点としての機能強化が求められています。
今秋の首里城正殿の完成を控えていますが、実は戦前、首里城北殿には本格的な独立館としての博物館施設であった沖縄教育会附設郷土博物館(1936年開館)がありました。戦後、公の施設として開館した当館も含めて、沖縄における博物館活動史は90年の節目を迎え、今日、自然・歴史・文化・芸術の教育文化や文化観光の拠点としての存在感を高めることは益々重要だと感じています。
館内では年明けから、従来の水銀入り照明の2027年度からの製造禁止に伴うLED化工事が予定されており、照明器具を全替えする必要があります。県民に多大なご迷惑をおかけすることになりますが、展示環境の適正化の整備、収蔵資料の保全、さらに地球にやさしい環境負荷に対するご理解、ご協力をくださいますようお願いいたします。来館者の観覧の機会喪失を最小限に努めるよう検討したいと考えています。
また2016年から2期10年間務めてきた一般財団法人沖縄美ら島財団から、今春から5カ年間、公益財団法人沖縄県文化芸術振興会へ指定管理者が移行します。同会は、 「沖縄アーツカウンシル」などの事業を行い、積極的な芸術文化の発信に努めており、そのソフトパワーを含めて、博物館・美術館のさらなる活性化に向けて一層の活躍を期待しています。
昨今の国際情勢の不安定さがあり、地政学的に重要な位置である沖縄もよそ事ではありませんが、博物館・美術館が沖縄文化・芸術の殿堂をめざすとともに、「平和文化」創造の拠点としての存在意義も強まっています。81年前、沖縄戦によって破壊された国宝等文化財のかけらを開館初期のメインコレクションとして位置づけてきた当館にとっては自明のことです。
当館は、地上3階、地下1階の延べ床面積23,271㎡の県内で最大規模の施設です。これだけ大きな施設を運営するためには、ボランティアや支援組織、展示交流員など博物館・美術館を支える方々の協力は不可欠です。沖縄の文化振興の拠点として貢献するとともに、収蔵機関としての強みを最大限生かした調査研究に基づいた展示づくりや教育普及、有形無形の文化財等の適正な保存継承に取り組んでいきます。
最後に、当館の「平和文化」を象徴し、戦災文化財でもある代表的な展示資料の紹介を兼ねて結びとしたいと思います。
重要文化財・旧首里城正殿鐘(一名、「万国津梁の鐘」)は、当館に来館しなくても沖縄県民はテレビでよく目にするかもしれません。沖縄県知事応接室に飾られる屏風に、鐘の銘文が清書されており、知事がメディアに出演し、知事応接室で接客する場合には、その背景にみえます。ただ、実物は、黒く焼けており、弾痕と思われる穴があったり、強い衝撃でえぐられた痕があったりと損傷しており、私たちに戦争の傷痕を伝えます。一方で、そこに刻まれる233字の金石文(金属や石に刻まれた文字をいう)からは、1458年当時の琉球の先人たちの国家運営の基本的な考え方を読み解くことができます。交易国家としての善隣友好の心構えをもっていた
15世紀の琉球と沖縄戦を体験した20世紀の沖縄と、二つの時代の物語をこの鐘は私たちに語りかけてきます。
2007年の開館当初、この鐘は進貢船模型のそばに配置していました。模型が配置されたステージに置いたことや黒色に焼けていたためか、レプリカ(樹脂製)だと思われ、来館者によく触られていました。博物館・美術館では、資料に触れることは保存上厳禁ですが、本物かどうか確認したい心情が来館者に強く働いたのだと思います。
資料保存上の問題点を解決することや、琉球王国を代表する第一級資料であることをしっかりと認識してもらうために、2017年の常設展示の一部リニューアル時に、単独でしっかりみせる展示構成に展示手法を変更しました。その際に、より強い魅力の発信のために、鐘を鳴らせるものならその音色を聞きたいと思いました。鐘全体のX線撮影を行い、学術的な調査研究に基づき、保存状況を把握した上で、戦火をくぐってきた王国時代の繁栄の鐘を撞くことができました。綿密な計画のもとで、721kgの鐘をバックヤードに移動して、文化庁の了解のもとに3回鳴らすことに成功しました。その鐘の音を私たちは、博物館常設展示室で実際に聞くことができます。収録した音ではありますが、30分間隔でその鐘の音は展示室内に響きます。 15世紀の鐘の音色は魅力的です。是非、博物館常設展示で琉球の先人たちに思いを馳せ、耳を傾けてほしいと思います。また、この鐘の音は沖縄戦の戦禍の語り部として聞くこともできます。
「万国津梁の鐘」の銘文に刻まれる「津梁」(かけはし)は、時代を越えて平和文化を発信し、県民共有の財産を未来へつなぐ施設と自覚し、運営する学芸員をはじめスタッフのチムグクル(肝心)を育て、持続性をもって、県民が自身の自然、歴史、芸術を含む文化に誇りをもつことができる「マイ・ミュージアム」として自慢できる博物館・美術館づくりをめざしていきたいと思います。
県民をはじめ多くの観光客のご来館をお待ちしております。
2026年4月
沖縄県立博物館・美術館
館 長 園 原 謙