最終更新日:2022.09.06
皆さんはソサエティー5.0(Society 5.0)という言葉を聞いたことがあるでしょうか?これは日本政府が提唱する未来に向けたキャッチフレーズで、これまでの人類社会に対して、21世紀の知識と技術で新たな社会の構築をめざそうというものです。
このコンセプトによれば、ソサエティ―1.0は狩猟採集社会、ソサエティ―2.0は農耕社会、ソサエティ―3.0は産業革命以後の工業化社会、ソサエティ―4.0は情報化社会、そしてソサエティー5.0はAIとロボットを活用して切り開く「超スマート社会」とされています。SDGs達成の切り札として、ソサエティー5.0とそれを支える革新的技術への注目度はますます高まっていると言えるでしょう。
わたしたちは、1945年の太平洋戦争の敗戦から、戦後の高度経済成長期を経て、現在の高度な文明社会を築き上げてきました。人類史の観点から見ると、こうした繁栄の影には長い長い助走期間があり、現代の繁栄は決して一朝一夕に達成されたものではないことがわかります。
図1は沖縄の人類史を24時間時計に置き換えたものです。人類史の大部分はソサエティー1.0で、沖縄ではソサエティー2.0は約1000年前にはじまり、ソサエティー3.0は150年ほど前、ソサエティー4.0はここ20~30年ほどの出来事に過ぎません。貝塚時代や琉球王国時代に比べて、現代のわたしたちのくらしは格段に豊かに、そして便利になりました。
図1 沖縄人類史時計
沖縄の人類史を2 4 時間時計に置き換えたもの。沖縄に人類( ホモ・サピエンス) が渡来したのは約3万6000年前で、そこから約1万年前までが旧石器時代です。その後、貝塚時代が約1000年前まで続き、11世紀頃に農業が導入されてグスク時代が始まります。1 5 世紀には4 5 0 年続いた琉球王国が樹立されました。2 4 時間時計( 1 時間= 1 5 0 0 年)で見ると午前0時から午後5時過ぎまでが旧石器時代で、その後午後11時過ぎまでが貝塚時代となります。沖縄の歴史の大半は、狩猟採集の時代(ソサエティー1.0)だったことがわかります。(出典:企画展「海とジュゴンと貝塚人-貝塚が語る9000年のくらし-」図録:18頁)
貝塚時代や王国時代の人々は、数十年の人生の間に、目に見えるような社会や文化の変化を体感することはありませんでした。子どもの頃の日常生活と、老人になってからの日常生活とはほぼ同じで、粗末な家に住み、朝は日の出とともに起き、竈(かまど)の火をおこし、水を汲み、つましい食事をして日中は野良仕事に出かけ、日暮れとともに家に帰り、家族と睦まじく団らんし、夜更かしすることはなかったでしょう。こうした日常生活の様子は、数百年という時間幅の間でほとんど変化せず、現代人の目から見ると「単調」と言っても過言ではないものでした。
しかし、現代の私たちは違います。私たち現代人はわずかな一生の間に、過去の人たちには考えられなかったような劇的な変化を経験しています。数十年生きた人であれば、子供の頃のくらしと現代のくらしが大きく変化したことが実感できるはずです。しかも、人類文明の進歩はどんどん加速しているようです。
現代風に言えば、貝塚時代や王国時代のような長期にわたって変化の乏しい社会は、「低成長社会」と位置づけられることでしょう。しかし、ソサエティー1.0や2.0の「低成長社会」に生きていた人々が、「自分たちは貧しいな」とか「不便だな」とか愚痴ばかり言って暮らしていたかというと、そうではありませんでした。貝塚時代や王国時代にも、人類の創造性を遺憾なく発揮したすばらしい芸術的作品が製作されており、現代人が見ても感心するような技術と力量を当時の人々が備えていたことがわかります(図2)。
図2 獣形貝製品(うるま市地荒原貝塚出土) 約3000年前
硬いイモガイの貝殻から切り出した見事な貝製品。日常の生業活動には少しも役立たなかったはずだが、貝塚人はこのような芸術的作品を製作していた。
沖縄県立博物館・美術館では、2021年10月21日(木)に南城市サキタリ洞遺跡(ガンガラーの谷内)から発見された「日本最古の着色された装飾品」について記者発表を行いました。これは、サキタリ洞遺跡(調査区Ⅰ)から発見された約2万3000年前のニシキツノガイのビーズに赤色顔料が塗布されていた、というもので、県内だけでなく全国的にも大きく取り上げられました(図3)。
図3 サキタリ洞遺跡から出土したニシキツノガイのビーズ(左)と顔料付着部の拡大写真(右)
ニシキツノガイ(Pictodentalium formosum)という貝は、やや深い場所に生息しているツノガイの仲間で、生貝を得ることは困難であることから、旧石器人は浜辺に打ち上がった死殻を拾って、サキタリ洞まで運んできたことになります。学名のformosumはラテン語で「美しい」という意味で、その名の通り赤く美しい貝です。
沖縄を含む日本の海岸でニシキツノガイの貝殻を拾うことはなかなか困難なようで、私もずいぶん各地の海岸を歩きましたが、まだ遺跡出土品のような貝殻には出会ったことがありません。図4は、たまたま立ち寄ったインドネシアのバリ島の海岸でニシキツノガイを拾った時の写真ですが、よほど目を凝らして探さないと見つけられません。「なんとなくきれいだから拾ってきてビーズにしてみた」というだけではない、旧石器人の強い「こだわり」がうかがえます。サキタリ洞遺跡からは、ニシキツノガイのほかにもツノガイ類や小型二枚貝、小型巻貝を利用した旧石器時代の貝ビーズが多く出土しています(図5)。
図4 インドネシア・バリ島の海岸で見つけたニシキツノガイ(2013年10月)。
図5 サキタリ洞遺跡から出土した旧石器時代の貝ビーズと顔料
さて、ニシキツノガイはそもそも赤い貝なのですが、サキタリ洞では、この貝にさらに赤い顔料が塗布されていました。残存部分は非常にわずかですが、赤い色が確認でき、本来はもっと広い範囲に塗布されていたのでしょう。ビーズの赤い色調を、より強調させたかったのでしょうか。
従来、日本における顔料の利用は後期旧石器時代前半期(約3万5000年前)に遡ることが確認されていましたが、顔料の素材となる岩片や顔料をすりつぶすための台石・磨石類は見つかっていたものの、具体的に顔料がどのように使用されたのかはよくわかっていませんでした。顔料の使用例として古くかつ明確な事例として、縄文時代草創期(約1万5000~1万年前)の土器に塗布された事例が知られていましたが、サキタリ洞遺跡のビーズは、これよりも古い日本最古の顔料塗布の証拠となります。
ビーズに付着した赤色顔料は、蛍光X線分析の結果、鉄(Fe)に由来するものと推定されました。同じ調査区からは、顔料塊や顔料素材と考えられる岩片もみつかっており(図6)、やはり鉄分を多く含むことが確認されています。鉄を含む赤色顔料としてはベンガラが広く知られており、自然界に存在する褐鉄鉱や玄武岩質岩石などの鉄分を多く含む鉱物・岩石(図7)から人為的に生成することができます。粉末状の顔料を、油脂等に溶いて塗布したのではないかと思われます。
図6 サキタリ洞遺跡から出土した顔料素材(顔料原材)(A)(2万2300年前)と顔料塊(B)(1万6000~1万3000年前)
顔料素材(A)は微細な鉱物粒を含むことから、火山岩の風化物の可能性がある。顔料塊(B)は柱状・緻密で、両端が摩滅しており、対象物に押しあてて「クレヨン」のように使用されたと考えられる。
図7 地層中に形成された褐鉄鉱(鬼板)(左:国頭村安波)と火山岩が風化して形成された赤土(右:久米島)。
古代の顔料は、こうした自然界に存在する鉄分を多く含む鉱物・岩石から人為的に生成されたと考えられる。
2018年には、同じサキタリ洞で約5500年前の赤色顔料が付着した砂岩礫も確認されています(コラム 「顔料の来た道」)。沖縄では琉球王国時代の首里城正殿をはじめ、歴史的に赤色顔料がさまざまな場面で使用されてきましたが、こうした顔料の使用は、非常に古い時代までさかのぼることが明らかとなってきました。
※琉球王国時代の顔料については以下の文献をご覧ください。
尚家文書に記された琉球産ベンガラについて((一財)沖縄美ら島財団 幸喜 淳 氏)
サキタリ洞の旧石器人は、ソサエティー1.0の低成長社会に生きていました。現代のように栄養価が高く、おいしくて消化にも良いご飯やパンもなく、粗末な野生の動植物を糧としていた旧石器人は、しかし、飢餓の入口でさまよっていた哀れな人々だったわけではありません。彼らは身だしなみにも気を使い、小さな赤い貝殻を求めて延々とビーチを歩き続ける余裕と忍耐を兼ね備えていました。
当然のことですが、装飾品や顔料を身に着けていたからといって、狩猟の成功確率が目に見えてアップするわけではありません(もっとも、「幸運 (happy)」を求めてアクセサリー類を身に着ける人は現代でも多いのかもしれませんが)。むしろアクセサリーは、生業活動、中でも狩猟活動のように獲物を求めて走ったり隠れたりする際には、邪魔になるような無用の長物だった、と言っても過言ではないでしょう。なぜ彼らは、こうした不必要にも思えるアクセサリー類を必要としたのでしょうか?そこには何らかの意味や思いが込められていたはずです。現代人が身に着けているアクセサリーにも、人に見せるためのかざり(ディスプレイ/ステータス)や、おまもり(アミュレット)などさまざまな意味合いがあり、一通りではありません。しかし、旧石器人が現代人にも劣らない豊かな精神性を備えていたことは間違いありません。
図7 貝ビーズを身につけた旧石器人(港川人復元模型2014年度版)
コラム 「港川人(新型)」 参照
自然のなりゆきに大きく左右され、平均寿命は著しく低く、乳幼児死亡率や感染症死亡率は極めて高かったと考えられるソサエティー1.0の社会が、現代的な意味で「豊か」だったとはとても言えません。しかし、彼らが日々の糧を求めてさまよい歩くだけの貧しい暮らしを送っていたと考えるのは明らかに間違いです。沖縄の旧石器人は、ある種の「余裕」を兼ね備えた人々だったと言えるのです。
参考文献
山城安生・山崎真治 2020「沖縄県北谷町伊礼原E遺跡出土の赤色顔料付着土器とガラス質安山岩製石鏃」『沖縄県立博物館・美術館・博物館紀要』第13号
玉榮飛道・久貝弥嗣・山崎真治2021「沖縄先史時代の赤色顔料関連資料」『沖縄県立博物館・美術館・博物館紀要』第14号
山崎真治・澤浦亮平・黒住耐二・藤田祐樹・竹原弘展・海部陽介2021「サキタリ洞遺跡の貝製ビーズと顔料利用に関する新たな知見 : 沖縄の旧石器文化をめぐる特殊性と普遍性」『旧石器研究』 17: 57-77
山崎真治 編 2021『企画展 海とジュゴンと貝塚人』図録 沖縄県立博物館・美術館
山崎真治 2022「沖縄先史時代の赤色顔料関連資料(Ⅱ) ― 北中城村荻堂貝塚・うるま市天願貝塚・地荒原貝塚出土品の再報告とサメ椎骨製耳飾をめぐる問題―」『沖縄県立博物館・美術館・博物館紀要』第15号
主任学芸員 山崎真治