沖縄の美術家たちも戦争に巻き込まれ、疎開先や出征先の戦地で、または沖縄戦の捕虜として、終戦を迎えます。
他の文化活動と同じく、戦後の沖縄の美術活動も収容所から出発します。画材を手にするのも難しい状況の中でも、収容所風景やアメリカ兵に頼まれた肖像画を描くなどして、作品制作を再開していきました。
1946年5月に発足した行政機関である沖縄民政府には文化部芸術課がおかれ、大城皓也(おおしろ・こうや)、山元恵一(やまもと・けいいち)らが技官(ぎかん)として採用されて、展覧会などの戦後復興期の文化事業を手掛けます。
また、軍政府が依頼したクリスマスカードの制作を請け負ったり、売店を通して絵を販売したりもしました。
1947年には「沖縄美術家協会」も結成され、画家たちが協力して沖縄本島の各地で展覧会を開催するなど活動を広げていきました。