最終更新日:2022.10.19
去る令和4年10月7日(金)に首里公民館において上里隆史さんによる『真の尚巴志像を探る』というテーマでの講演会が行われました(写真1)。この講演の中で印象深かった話として尚巴志が人間として形成された時期は佐敷グスクにて過ごした青年期であり、彼が覇業を成す礎を築いた時期であったということでした。それは尚巴志を1人の人間として見た場合、人間形成されていく時期というのは少年期から青年期にかけてであり、佐敷グスクに居た時期がおそらく彼にとって最も濃密な時間を過ごしたものと考えられると、説明されていました。
尚巴志にとって濃密な時間を過ごしたとされる佐敷グスクとはどのような場所であったのか、以下に触れていきたいと思います。
(写真1)多くの聴衆が集まった講演会
佐敷グスクは馬天港を見下ろすことができる丘陵の斜面に位置しており、現在はグスク内には「月代宮」と呼ばれる第一尚氏王統を祀った拝所が鎮座しています。このグスクは沖縄本島南部でよく見るような石積みを用いたグスクではなく、土を切り盛りして段築状に平場を展開させた土から成るグスクと言えます。過去の発掘調査では平場から堀立柱建物の柱穴が多数、出土しているのに合わせて、数多くの中国産陶磁器がこの調査で出土しています(写真2)。
そして、近年ではグスク平場の縁辺部から斜面部にかけて貼石遺構と呼ばれる斜面に石を貼り並べた遺構が発掘調査によって確認されています。これは本格的な石積みを構築するのではなく、石積み様に見せるためのデコレーションであると言え、面石の控え部分に裏込石は充填されていません。
これらのことから遠くからこのグスクを望んだ際には、さも石積みの城壁で厳重に防御されたグスクであるように見えたかもしれません。
尚巴志が若かりし頃を過ごした佐敷グスクですが、1402年に父である思紹と共に島添大里按司を滅ぼし、根拠地を佐敷グスクから島添大里グスクへ移します。
島添大里グスクは尚巴志にとって1406年に首里城へ根拠地を移すまでの約4年間という短い期間ではありましたが、首里城へ移ってからも離宮のような形で使われ続けていたグスクでもあります。過去の発掘調査でも島添大里グスクは15世紀前半の遺物が大量に出土していることにあわせて、主となる平場がこの時期に大きく改変されていることからもそれを裏付けていると言えます。
島添大里グスクは山南王の根拠地であるとされています。グスクの面積は近年の発掘調査の成果から3万㎡を越えているとされ、このことは沖縄本島南部でもかなり規模の大きい部類のグスクであることが指摘されます。また、標高約150mの丘陵頂上に築かれていることから、首里方面から沖縄本島東海岸一帯を望むことができ、沖縄本島南部にあるグスクの中でも広域的に眺望できる数少ない場所であると言えるでしょう(写真3)。
このグスクからは首里城を遠望することができることから、尚巴志にとって中山の根拠地の一つを攻略するイメージを想い描いていたかもしれません。実際に1406年に思紹、尚巴志父子は察度王統の中山を滅ぼし、思紹は中山王に即位することになります。そして、その15年後には尚巴志は父から王位を継いで、第2代国王として1422年に即位するに至ります。
以上のことから島添大里グスクは尚巴志の野望を具体的に実現していくための場所であったと見ることができます。
(写真3 上)第一尚氏王統の頃に建てられた礎石建物跡
(写真4 下)丘陵頂上に位置する島添大里グスクを麓から望む
尚巴志が三山統一に向けての基礎となった2つのグスクについて触れてきましたが、やはり現地を訪れないと分からないことがたくさんあることに改めて気付かされます。
尚巴志は後の時代に脚色されて現在では偉人視、英雄視されていることから、なかなか本来の人物像を窺い知るには難しい部分があります。更に尚巴志が生きていた時代の文献資料がほぼ皆無であることからも、直接的にその人柄を知るということはできません。
しかし、尚巴志ゆかりの地を訪れると当時、彼が立ったと思われる場所と同じ場所に立つことができます。そこから見えてくる実際の風景から、その人物像を読み解いていくことも歴史の知る醍醐味であると言えます。
今回、尚巴志王即位600年を記念して11月12日(土)に佐敷グスクと島添大里グスクを実際に訪ね歩く現地解説会を行います。定員20名(事前申し込み、先着順)で参加費は無料となっていますので、ご興味ある方はぜひご参加ください(写真5)。
(写真5)
主任学芸員 山本正昭