6月9日から始まりましたエントランスミニ展示『稲村賢敷(いなむらけんぷ)が追いかけた倭寇(わこう)の姿』ですが、宮古島市教育委員会からの協力や当館の民俗、教育普及担当の学芸員による助力によって会期に間に合うことができました。沖縄県立博物館・美術館は基本的に毎週月曜日が休館日ということもあって、今回のようなエントランス展示は実質半日で仕上げないといけません。ですので、他の学芸員との連携がどうしても必要になってきます(写真1)。また、手伝っていただくことで今回の展示会を深く理解していただく絶好の機会にもなります。
さて、稲村賢敷の研究について深く知るには『琉球諸島における倭寇史跡の研究』『宮古島庶民史』『沖縄の古代部落マキョの研究』といった氏の著作を一読することは言うまでもありませんが、彼の人となりについては分からないことが多くあります。当館の田名真之館長が新人として那覇市史編纂業務に携わっていた頃に、当時嘱託員として那覇市に在職していた晩年の稲村賢敷先生に会ったと言うこと聞きました。郷土史研究の大家としてその頃には名前が琉球史研究者の間では知れ渡っていたため、畏れ多くて気軽に話しかけることができなかったとのことでした。
1894年に宮古島市平良(ひらら)で生を受けた稲村は平良高等尋常小学校を卒業したのち、1910年から城辺(ぐすくべ)高等尋常小学校の代用教員として勤務します。その後、沖縄師範学校に入学して1916年に卒業しました。同年に結婚し、翌々年には長女が誕生しました。家庭を持って順風満帆な人生を歩んでいましたが、1919年に東京高等師範学校へ入学することになります。翌年に平良尋常高等小学校で教鞭を取っていることから、東京では生徒、宮古島では教員として往復するといった多忙な日々を過ごしていたことが分かります。この間にはロシアの言語学者で民族学者あるニコライ・ネフスキーを宮古島に招き、そして調査に同行しました。このように精力的に研究と教員生活を続けていく一方で、東京高等師範学校卒業後は沖縄師範学校、台南州立第二中学校、沖縄県立第一中学校、沖縄県立第三中学校、沖縄県立農学校、と1923年から1939年までの約15年間で5つの学校で教鞭を取ることになります。そして、1942年に沖縄県立八重山中学校、1944年に沖縄県立宮古中学校の校長に赴任して終戦をむかえます。
稲村の研究成果が世に出だしたのは主に戦後で、1950年にガリ版刷りで『宮古島史跡めぐり』を刊行したことを皮切りに、1957年に『宮古島庶民史』と『琉球諸島における倭冦史跡の研究』を、1962年に『宮古島旧記並史歌集解』、1968年に『沖縄の古代部落マキョの研究』と主に1950年代後半から1960年代にかけて意欲的に自身の研究を推し進めていきました。
以上のように稲村賢敷の略歴を一部、紹介していきましたが、戦前は主に教育者としての側面が、戦後は研究者としての側面が強く表れていると言えます。また、沖縄本島や宮古島、石垣島、さらには台湾での在住経験があったことから、宮古島だけではなく海域アジアというより広い視野をもって琉球史を見ることができたと言うことができます。このような視点で琉球の歴史を見ていくことを稲村賢敷は戦後間もない頃から提起していた事実は、現在において横たわっている琉球史研究の課題を乗り越えていく上で、今の研究者にとっては大きな励みになります。
今回のミニ展示に合わせて沖縄県立博物館・美術館の情報センターで関連図書コーナーを特別に設置しています(写真2)。その中で『琉球諸島における倭寇史跡の研究』『沖縄の古代部落マキョの研究』も置いておりますので、ご興味がありましたら観覧に合わせてご覧ください。
写真1 展示準備風景
写真2 情報センターの関連図書コーナー
主任学芸員 山本正昭