円覚寺総門復元

最終更新日:2020.07.15

写真1 8ミリフィルム

写真1 8ミリフィルム

  写真2 組物製作

写真2 組物製作

写真3 柱組み立て工事

写真3 柱組み立て工事

写真4 屋根完成

写真4 屋根完成

美しい珊瑚礁と手を染めるような緑につつまれた島の沖縄文化は、その地理的・歴史的条件から日本の文化史上に独自の地位を占めていることは論を待たない。

沖縄の建造物については大正12(1923)年、伊東忠太氏の現地調査によってその優秀性と特異性が紹介されたのを契機として、これらの文化的遺産の保存に対する気運が急速に高まり、首里城正殿(当時沖縄神社拝殿)が特別保護建造物として指定されたのは、その対策の最も早い例である。その後、守礼門をはじめ首里城の諸門、園比屋武御獄、末吉宮などが次々と旧国宝に指定され、1940年には総数11件20棟の多くに上った。

1945年沖縄は太平洋戦争における戦場になるという悲惨な運命に見舞われた。「鉄の暴風」と形容されるように未曾有の砲火は、沖縄の山容すら変えた。多くの人命とともに、誇るべき文化財もそのほとんどが炎上飛散し、わずかにその敷地を残すのみとなった。このことは単に歴史的遺産を失ったことにとどまらず、沖縄の人々にとってはその精神的な支柱を失ったことも意味することであり、その損失は計り知れないものだった。

しかし祖先の優れた知恵と技の結晶を受け継ぎ、次代に引き継ごうとする人々の熱意と努力は、戦後、極度の辛苦の中でも挫折することなく続けられ、わずかに残された遺構や戦災でバラバラになった文化財の残欠から復元を進めることが行われてきた。

1956年に園比屋武御獄(そのひゃんうたき)、58年には守礼門(しゅれいもん)が復元された。そして66年に円覚寺の放生橋(ほうじょうばし)の復元工事が行われ、引き続き67年から円覚寺総門の復元工事に着手、68年には円鑑池の中島にあった弁財天堂の復元工事が行われたのである。

さて当館の劣化フィルム保管庫では、400本以上の映像フィルムを保管している。1970年~90年代のフィルムが多くを占めるなか、今回67~68年の円覚寺総門復元と弁財天堂復元を記録した8ミリフィルムが存在していることが判明した。フィルムは残念ながら劣化が進行し、湾曲と硬直、カビの発生が見られた。劣化したフィルムを映写機にかけ内容を確認することは容易なことではない。フィルムクリーニングや変形したフィルムの修正を手作業で行い、丁寧に時間をかけて機械にかけるようになる。またフィルムに残った連続したコマをデジタルスキャンすることでデジタル画像としてDVD化し、通常の再生機で見ることが可能になるのだ。

こうして再生にたどりついた、円覚寺総門復元の映像には、職人が柱を担ぎ、屋根を支える斗栱(ときょう)といわれる組物を試作する様子などが記録されている。復元のためには文化庁から調査官や技官を長期間派遣して、琉球政府文化財保護委員や職人たちとともに復元にあたった。その技官の一人である伊原惠司氏は当時の新聞に以下のように記している。「(復元が)単なる外観上の模倣に終わらぬよう、本島をはじめ離島方面までわたって古民家の調査を行い沖縄独自の構造技法を再現するよう努め、第一案より数度にわたる修正を加えて復元設計を完了した。また施工面においては(中略)、単に図面だけによらず実物大の試作を行って決定し、真剣な検討が続いた」とあり「こうした関係者の積極的な努力」によって復元工事が行われたことを誇った。映像には68年7月15日の完成式典の様子も映っている。真栄田義見文化財保護委員長は「雄大な祖先の精神を目の前に見るし、祖先から話しかけられるような感激を覚えるものである」と言葉を贈った。

私はこの映像復元を通して戦争から立ち上がり文化の復興に傾注した先輩達の思いを目に焼き付け、博物館の業務にあたることを決意するのである。

主任学芸員 外間一先  


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主任学芸員 外間一先

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