1. 石碑「重修天女橋碑記」のあれこれ

石碑「重修天女橋碑記」のあれこれ

最終更新日:2012.10.26

写真1弁財天堂と天女橋

写真1弁財天堂と天女橋

写真2重修天女橋碑記(裏面)(現況拓本)(当館所蔵)

写真2重修天女橋碑記(裏面)(現況拓本)(当館所蔵)

写真3復元された重修天女橋碑記(首里城公園内、円鑑池側)

写真3復元された重修天女橋碑記(首里城公園内、円鑑池側)

「重修天女橋碑記」は、琉球王国時代の18世紀、円鑑池に架かる天女橋を重ねて修理した記念碑として建てられました。表裏面に刻まれた碑文から、王府が実施した天女橋の修理に至る経緯や工事の組織体制・経費などを知ることができます。
建築や修理の工事にかかわる事項を中心に、おおまかな内容をあげると以下のようになります。

  1. 弘治年間(『球陽』他によると1502年)、朝鮮から賜った方冊蔵経を納めるために、円鑑池の中之島に堂と、そこに至る石橋を創建
  2. 壊れた堂を1621年に再建(「弁財天女堂」、現在の弁財天堂)し、石橋を天女橋と命名
  3. 1744年、傾いて崩れそうになった天女橋を修理して景観を良くし、修理を記念した碑を建立
  4. 1798年、倒壊した碑を再建

さらりとまとめましたが、実はいくつも興味深いことが記されています。「方冊蔵経」という経典、天女橋の由来、お堂や橋を修理した来歴など、外交や仏教、建築・土木工事、名称の由来という、どれも琉球史像を物語る上で大切な事柄です。
そのようななか、私が気になったことは・・・「石碑が倒壊したこと」です。もとは高さ2m以上あったと思われる石碑が倒れるなんて!よほど大きなエネルギーが働いたと思われますが、その理由ははっきりとわかっていません。引き続き理由を探っていければ、と思います。
その後、碑は戦災を受けて破損してしまいましたが、幸い残存した部分は戦後すぐに収集され、現在、沖縄県立博物館・美術館に収蔵されています。円鑑池のほとりには、那覇市によって復元された「重修天女橋碑記」があり、往時を偲ぶことができます。

ぜひ一度は足をお運びになって下さい!なぜ石碑が倒壊したのかを一緒に考えましょう~!

主任 崎原恭子

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