最終更新日:2011.09.30
博物館の収蔵庫は巨大なビックリ箱です。 先輩達が長い年月をかけて蓄積した資料が満載されているのです。 この4月に沖縄県立博物館・美術館に考古担当として異動になり、はや半年が過ぎました。 しかし、いまだ考古部門収蔵資料の全容を把握できていません。それはそれは膨大な量なのです。 今回は、常設展示はされていませんが、興味深い考古資料について紹介します。 暑い夏のある日、収蔵庫にこもって資料調査(物色?)をしている内に、それは発見(?)されました。 あるではないですか、私の興味をひいてやまない資料が。 それは、多良間村の高田海岸から表採された中国(清朝)陶磁器(写真1・2)です。 袋書きには「S59(昭和59年)」と記されています。 この陶磁器はいったいどういう由来で海岸にあったのでしょうか。
1857年、オランダ商船が多良間島高田海岸沖で座礁・沈没しました。 時は、琉球王国末期、最後の国王尚泰の時代です。 日本開国を目指した西欧列強の異国船が琉球王国近海にも多数出没していました (写真3)。日本を開国させた有名なペリー提督が那覇港に現れたのは、この前年です。 オランダ商船座礁の記録は琉球王国が編集した『球陽』に記載されています。地元でも伝承されており、座礁した海域はオランダリーフ(写真4)と呼ばれ、船が使用していた鉄錨も『オランダ錨』として現在も多良間村に保管されています(写真5)。長い間、船名等の詳細が不明でしたが、近年、金田明美氏によるオランダ文献の研究により、詳細が明らかとなりました。この船は、1854年にドイツのブレーマーハーフェンで造船されたオランダ商船ファン・ボッセ号(船長:ハーゲマン)でした。上海からシンガポールへ向かう途中、嵐にあって漂流、1857年に多良間島高田海岸沖で座礁・沈没したようです。
高田海岸から表採された陶磁器は、このファン・ボッセ号の積荷と考えられます (再び写真1・2)。オランダ商船は中国の焼き物を多量に商品として積載していたのです。座礁・沈没した船の積荷は海底に残されることとなりましたが、台風等の猛烈に強い波の力によって、海底の積荷は海岸まで漂着することとなったのです。小さな破片と化していることが、海底で激しい衝撃を何度も与え、海岸まで運び込んだ波の力を物語っています。考古部門収蔵庫に保管されていた資料は、白地に青で文様を描いた様々な器種(碗・皿・壷・蓋・蓮華)の美しい清朝磁器に褐釉陶器(壷)です。壷には何が入っていたのでしょうか。これらは、本来ならばシンガポールで商品として取引されるべきもので、海難事故が起きなければ琉球に存在しなかったはずの資料です。今後、海底の調査や回収された資料の詳細な調査・研究を実施することによって、ファン・ボッセ号のさらなる実態がわかるかもしれません。
遺跡や考古資料は、伝承や文献記録に記載された事件を実物として見ることができ、西欧列強異国船の実態を教えてくれるようです。
主任 片桐 千亜紀