1. 復帰50年 特別展 沖縄、復帰後。展 ーいちまでぃん かなさ オキナワー

開催中の展覧会

博物館 特別展

復帰50年 特別展 沖縄、復帰後。展 ーいちまでぃん かなさ オキナワー

2022年07月20日(水) ~ 2022年09月19日(月)

復帰50年 特別展 沖縄、復帰後。展 ーいちまでぃん かなさ オキナワー

沖縄の本土復帰から50年―。


《沖縄復帰記念式典》1972年

沖縄が日本に復帰して50年という節目を迎えます。
戦後27年間の米国統治を経て復帰したことは「世替わり」というほどの大きな転換点であり、復帰後50年は復興・成長・変化・継承・存続など沖縄は様々な経験をしてきました。
1972年5月15日を起点に復帰後のあゆみを振り返りつつ、次の世代に向けて自然・歴史・文化等の多様な面から沖縄について考える展覧会を開催します。

§1 復帰の日 ―葛藤をかかえて―

1972年5月15日。さまざまな矛盾や葛藤を抱えながら沖縄は日本に復帰しました。
その日、沖縄では何が起きていたのでしょうか?
5月15日は沖縄の悲願達成の日である一方で、現在まで続く基地問題など様々な困難の始まりの日でもありました。

§2 新生沖縄県の誕生

1978年7月30日。ナナサンマル。

復帰後の沖縄には、通貨交換や海洋博覧会、若夏国体など次々と世替わりといえる変化が人々の生活の中に訪れました。
開発と自然保護など葛藤や矛盾を抱えつつも沖縄振興開発が進んでいきます。

§3 沖縄ブーム、到来。

90年代は首里城正殿が復元し、沖縄独自の歴史や文化に加えて芸能界やスポーツ界においても県民が活躍することで沖縄への注目度が高まりました。
2000年代は九州・沖縄サミットやNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」による沖縄ブームが到来。基地返還後の跡地利用とまちづくりは沖縄の持つ可能性の大きさを再認識させました。
沖縄美ら海水族館の開館などもあり、沖縄は観光立県として歩みを始めました。

  • 世界のウチナーンチュ大会
  • ライトアップされた首里城
  • 沖縄都市モノレール「ゆいレール」
 

§4 変化・変容と沖縄 ―各分野から迫る、沖縄像―

ストップ!ザ・ロードキル

この章では、沖縄の変化・変容について自然史、人類、考古、歴史、民俗分野の視点から紹介します。

 

自然史

見直される沖縄の自然。
海だけじゃない、世界から注目される本当の理由。
地学・生物の視点から紹介します。

人類

長期的な視点で見たとき、沖縄における人類史にはどんな画期があったのでしょうか。
人類の登場と農耕の開始に注目し大きな変化に人類がどう応答したのかを紹介します。

考古

復帰前後の遺跡はどの様に調査されたかのでしょうか。
そしてその後、それらの遺跡はどの様に変容していったのかを紹介します。

歴史

「ヤマト世」「アメリカ世」と、外部からの力で繰り返されてきた沖縄の世替わり。
そのような状況においても、ウチナーンチュは自らのアイデンティティーを大切にしてきました。
ここでは、誇りあふれる歴史・文化の研究のあゆみを紹介します。 

民俗

アイスキャンデー、ミスターコーラ、パッチー...。
懐かしいおもちゃやコザのディスコ関連資料など、子どもの遊びや大人の娯楽の変化を振り返ります。

§5 不変・継承・課題

復帰という大きな世替わりを経験した沖縄は、様々な面で変化しつつも「沖縄らしさ」という独自の文化を継承してきました。
この章では伝統工芸や伝統文化など、「受け継がれてきたもの」を紹介する一方で、戦後や復帰後も重く負担がのしかかる米軍基地の存在や沖縄の課題について展示します。

 
  • エイサー
  • 米軍基地
 

§6 希う、未来。

復帰から50年が経過し、復帰当時のことを知る人も県民の半数を切りました。
しかし、現代史の主人公は「わたしたち」一人ひとりです。
県民参加型の公募写真コンテスト「暮らしは歴史」より、写真を通して人々の目線で捉えた現在の沖縄の姿とわたしたちが「希う、未来の沖縄」の姿を紹介します。

「復帰」と私

「復帰50年 特別展 沖縄、復帰後。展 -いちまでぃん かなさ オキナワ-」の開催にあたって、外間 一先 博物館班長、宮城 修 担当学芸員に復帰にまつわるエピソードをインタビューしてみました。

外間 一先 博物館班長

―1972年5月15日、どこで何をしていましたか?

博物館班外間班長

私は幼稚園生でした。
ただ、はっきり覚えているのは、親が「これが日本のお金だよ」といって見せてくれました。
その頃、姉やその友達と一緒に、いわゆるイッセンマチヤーに行って、ドルを片手によく駄菓子を買っていたのでドルには親しみがありました。
親から日本のお金として見せられたものは、何か教育用に親が持ってきたおもちゃのお金かな、と思いました。
それが一円玉だったんです。
「なんだこれは!?」と思いましたね。これはとてもじゃないけど、お金に見えない。軽いし、小さいし。
この出来事を今でもはっきりと覚えています。5月16日くらいだったと思います。

―家庭事情に変化はありましたか?

博物館班外間班長

父が軍雇用員だったので、復帰したら父の仕事はどうなるんだろうかと、そういったことは幼いながらうっすらと考えていましたね。
もしかしたら、父や母が復帰に関する話をしていたことが影響していたのかもしれません。
あとは、たまに父が仕事で基地に連れて行ってくれたりとか、アメリカのお菓子や洋服を持ってきたりしてくれたので、基地の存在は身近に感じていたかもしれません。
父は、当時、那覇軍港に務めていて、その後嘉手納基地に移りました。私たちは豊見城村字豊見城、通称ドゥームラというところに住んでいました。

―復帰当時どんなことに興味を持ちましたか?

博物館班外間班長

1975年に豊見城高校が甲子園に出場したのですが…豊見城村字豊見城に住んでいる者としては、野球に目覚めないわけがありませんでしたね。
豊見城高校に入って、俺も甲子園に行くんだ!と意気込んでいました。小学2、3年生くらいだったと思います。
住んでいたところは、目の前に国場川が広がっていました。対岸には、那覇、壷川が見えるのだけど、それが都会に見えて。「東京ってこんな感じかな」と子どもながらに思いましたね(笑)。
こちら側(豊見城側)は田舎に見えました。国場川は小さな川なんだけど、対岸の景色は海を越えた向こうの東京という風に見えました。
それも、復帰によってヤマトが近く感じるようになった、ということだったと思います。子どもながらに、対岸の景色を見ながら、南の島にいる自分を感じていたんだと思います。

―「復帰」を実感した出来事はありましたか?

博物館班外間班長

覚えているのは若夏国体(1973年)に当時の皇太子、現在の上皇様が沖縄に来たことです。
皇太子夫妻が南部に行く際に、私が住んでいる豊見城の道を通過するということで、割り箸を二本に割って、きれいな丸を描いて、日の丸の小旗を作り、沿道に振りに行きました。
きれいな日の丸を描くんだ、といって練習した記憶があります。これは小学一年生くらいのことだったと思います。
家族で一緒に見に行きました。でも、一生懸命旗を振ったのは覚えているけど、お姿を見たという記憶がないです。いつの間にか通り過ぎていたのかもしれない(笑)。大人の群衆の中にいて、子どもなので小さいから見えなかったのかもしれないですね。

内地からの転校生との出会い

博物館班外間班長

宇栄原小学校(那覇市小禄)だったんですが、近くに那覇空軍基地と自衛隊の公務員宿舎があったので、小学校には内地からの転校生がたくさんやってきました。
もうね、名前がかっこいいわけ。「外間」とかいういわゆる沖縄の苗字ではなくて、「森」さんだったり「坂本」さんだったり、「高橋」さんだったり、テレビで聞くようなかっこいい名前に思えました。
あれは衝撃でしたね。よく覚えているのが、黄色いワンピースを着た「森ゆうこ」という転校生!
明るい表情で「森ゆうこです。今日は黄色のワンピースできました!」などと、ワンピースの色の話などをしながら自己紹介をするのです。はきはきと上手にお話するので、びっくりしました。
ウチナーンチュは、自己紹介したらモジモジして何を話しているかわらないところがあるでしょ。すごく自己表現がうまいな、とそれは衝撃的でした。
今やってるNHKの朝ドラマ「ちむどんどん」でもナイチャーとウチナーンチュが、国頭村で出会う場面がありましたが、本当に異世界の人という感じでした。県外の人は外国人よりも珍しかったかもしれない。外国人はアメリカ人をよく見ていたからね。
ぞくぞくと転校生が県外からやってきていたけど、みんなよく話すし、明るいし、勉強もスポーツもできるし。子どもながらに劣等感を感じましたね。

劣等感を吹き飛ばしてくれたのは高校野球と具志堅用高さん

博物館班外間班長

そんな劣等感を吹き飛ばしてくれたのが高校野球と具志堅用高さんの活躍でした。
豊見城高校の野球部はそのころかなり強くなっていて、バッタバッタと県外の強豪校を倒していく姿は子どもながらに爽快感があったかもしれません。うまく表現できないけど、心の隙間を埋めてくれるというか、励まされるものでした。それは私だけではなかったと思います。

―1972年当時、未来の沖縄はどうなると思っていましたか?

博物館班外間班長

1975年の海洋博覧会のなかで、「クジラ館」や「三菱未来館」など、海をコンセプトにしたパビリオンがありました。
海との共生とか、ロボットとか、テレビ電話とか、電気自動車だとか、そういったものが展示されていたのですが、そうした手塚治虫の描くような未来が本当に来るのかな―?と思いました。
我が家は、黒電話がやっと入ったところだったけど「テレビ電話なんてあり得るのか!?」と思いました。
自分が飛行機に乗るというのも考えられませんでした。
あのときは、世の中はそんなに変わらないんじゃないかと思ったけど、今あらためて見てみるとテレビ電話も実現してるし、むしろ技術の進歩についていけていない自分(笑)。
未来像は、海洋博で提示されていましたが、そんなに変わらないと、意外に冷静な感じで思っていました。あのころからおじさんだったかもしれないねー。

-外間班長が希う未来は?

博物館班外間班長

難しいね…。うまく表現できないけど、長いスパンで言うと、長嶋茂雄じゃないけど、「沖縄よ、永遠であれ」という感じかな。
沖縄は、いろんな意味で日本のなかでも独特の自然や歴史、文化がある非常に特徴的なところだと思います。冬も暖かいし、春も秋も好きです。
夏は暑いけど、他府県の猛暑に比べたらいい気候です。
沖縄はいいところだなと思うので、そいうところに人が平和に暮らしてほしいと思います。
平和の島であってほしい、「永遠」であるために平和であってほしいですね。
ずっとシーミー(清明祭)していたいかな。夢はそれだね。
外間家はシーミーに200人くらい集まります。カミウシーミー(本家の清明祭)とシーミーがあるのだけど、それが連続であって。
子どものころは嫌だったけど、今は楽しいな。それくらいの人が集まれる大きなお墓があります。200人が入れ替わり立ち替わりでやってきて。でも常時80~100人くらいはいますね。
シーミーやお盆、ショウガチが(いつまでも)できる沖縄であってほしいですね。

「復帰」と私 館長のインタビューはこちら

宮城 修 展覧会担当学芸員

―1972年5月15日、どこで何をしていましたか?

宮城 修 展覧会担当学芸員

まだこの世に生を受けていませんでした(笑)。僕は1975年の海洋博覧会の年の生まれです。
父と母に、1972年は何をしていたかというのを聞いたことがあるのですが、二人ともあまり覚えていないということでした。
復帰前後のことは覚えていましたね。私の実家は読谷村なのですが、1968年にB52が嘉手納飛行場に墜落した日は、父は朝から自転車に乗って嘉手納まで見に行ったそうで、そんなことは覚えていました。
また「ナナサンマル(730)」のときは、記録写真でも見るように、歩道橋や沿道にたくさんの人が集まってきて、「本当に交通が右から左に変わるのか」と半信半疑で見ていたようです。
車のナンバープレートがどう変わっただとか、通貨がドルから円に替わったことについても聞いたことがあるのですが、50年前のことで、あまり覚えていませんでしたね。
母は当時、専業主婦だったのですが、銀行に両替に行ったかどうかも覚えていないと言っていました。復帰の日も普段通りに過ごしたのだと思います。

―宮城さんが覚えていることはありますか?

宮城修担当学芸員

私が小さい頃は、割とまだ復帰前のアメリカの雰囲気が残っていたと思います。ですので、復帰前にアメリカが沖縄を統治していたということは意外なことでもありませんでした。
逆に、沖縄がかつて琉球王国という一つの独立した国だったということは、勉強した時に驚いた記憶はあります。
日常的に基地があり、アメリカ人がいて騒音もありますけど、それがあたり前の日常でした。
父はトラックの運転手をしていて、基地のなかに物を運搬していました。そのため、よく軍から安くで物を買って来ていましたし、友人からそういった物をもらうこともありました。
私自身が初めて米軍基地に入ったのは、子どものときの嘉手納基地のカーニバルのときですね。毎年、7月4日の独立記念日の前後にカーニバルがあって、近くのゲートからパス無しで入っていけました。
アメリカのお祭りですけど、近くに住んでいる沖縄の人が結構来ていましたよ。独立記念日近くには、花火も打ちあがりますし、色のついた煙が出る飛行機が空を飛ぶ航空ショーもあってとても賑やかでした。出店もあって詳細は覚えていませんが、ゲームやアトラクションもありましたね。戦闘機も見せてくれました。
私は古堅小学校に通っていたのですが、隣にはトリイステーションがあって、フェンスに穴が開いていました。そこから基地に侵入したりしましたね(笑)。今思えば怖いですけど…。基地の人たちも学校の先生たちも気づいていなかったんでしょうね。
それから、基地内にトリイビーチというところがあって、そこにも楚辺から海岸線沿いに入っていくことができました。
そこにドルの自動販売機があって、飲み物を買ったこともあります。アメリカ人はいっぱいいたのですが、我々高校生が入って行っても誰も何も言いませんでしたね。当時はまだ自由でアバウトだったんだと思います。

―「復帰」という言葉を聞いて、考えたことは何ですか?

宮城修担当学芸員

復帰前にアメリカ軍がいて沖縄を統治していたことはもちろん知っていますが、その実態がどうだったのかということは、大人になって、そして今回展覧会を担当して知るようになりました。沖縄の人たちがいろんな思いを持って27年間を過ごして、復帰を熱望していたということをあらためて感じることができました。
「復帰後展」について話をすると、歴史だけではなく、民俗や自然史など多角的な視点で捉えた総合展示となっています。 第1章では5月15日の「沖縄復帰記念式典」と「新沖縄県発足式典」のこと、式典会場隣の与儀公園であった復帰のあり方に抗議した「県民総決起大会」などを取り上げています。
第2章は復帰三大事業「植樹祭」「若夏国体」「海洋博覧会」とそれに伴う社会基盤整備、第3章は沖縄ブームについて取り上げます。
安室奈美恵さんやNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」のこと、それより前の具志堅用高さんの活躍など、芸能やスポーツで沖縄が注目された時期を紹介しますので、賑やかな内容になっています。
第4章は各分野(自然史、人類、考古、歴史、民俗)で展示する予定です。各担当の学芸員が、それぞれの切り口で復帰以降の沖縄の歩みを紹介します。民俗では、イッセンマチヤー(駄菓子屋)やディスコが再現されています。
第5章や6章は沖縄が復帰して50年経つのですが、まだ解決していない課題や受け継ぐべきものなどにスポットを当てて、将来の沖縄像について考える展示で締めくくるような内容になっています。
展覧会の構想は2年前からあって、具体的なことは1年前から動きました。ただ、去年はコロナの影響もあり、なかなか資料調査も予定通りに進みませんでした。やっと2021年10月から本格的に動けるようになりましたので、そこから一気に作業を進めました。

―未来の沖縄はどうなると思いますか?また、宮城学芸員の希う未来とは何ですか??

宮城修担当学芸員

最近、印象的なことがありました。国頭村で50年前の海上集会を再現する集まりがありました。私はこの集まりには参加しませんでしたが、その日に国頭であった式典には参加しました。
そこで、ガレッジセールの川ちゃんら、復帰生まれの人たちが結成している「結515プロジェクト」の代表の方がスピーチをしていました。
沖縄は自然破壊や基地の問題、子どもの貧困など課題が多い。しかもその課題は深刻で解決が難しいものばかりです。けれどもウチナーの人は沖縄が大好きだよね、ということをお話されていました。私自身も共感できるところが多くて「そうだよな」と...。彼らの言葉がとても印象的でした。
人は平和や安定を求める気持ちが強いと思います。誰も好き好んで課題の多いところには行きません。それでも沖縄を好きな人が多いというのは、沖縄には魅力がたくさんあって、そこに誇りや気概を持てるからだと思います。よくアイデンティティと言いますが、そういったものを持てる人が多い沖縄というのは、やはりいい島なんだなと思います。
沖縄には人とのつながりはまだ残っていると思いますが、でも以前に比べるとそうでもないなと思っています。私が小さい頃は同級生だけではなく、近所の子たちと年齢関係なく遊びました。
しかし、今はそうではなくなってきていますよね。近所の子どもが一緒になって遊ぶということがなくなってきている。家の近くの広場や道で、プーカーボール(空気の微妙に抜けたボール)で野球をしたりしていましたが(笑)、それもなくなっていますよね。
昔のように地域のつながりが復活するといいな、生活が便利にはなっているけれどもそこは以前のようになればいいなと思います。そして何よりもみんなが安心して平和に暮らせることができる沖縄県になってほしいです。それが私の望む未来です。

「復帰」と私 館長のインタビューはこちら

沖縄復帰50年 歴史 沖縄の今昔 沖縄の歴史 戦後沖縄

展覧会のみどころ

1972.5.15の日。数々の葛藤を抱えながら復帰の日を迎えた沖縄はどのような変遷を遂げたのか?変わったもの、変わらないもの、継承、課題、そして私たち県民が目指す未来とは?

展覧会情報

会期 2022年07月20日(水) ~ 2022年09月19日(月)
場所 特別展示室1,特別展示室2,企画展示室
観覧料 一般¥1,000(¥800)/ 高校・大学生¥500(¥400)/ 小・中学生¥200(¥160)
※( )内の料金は前売ならびに20人以上の団体料金。
※障がい者手帳をお持ちの方と介助者1名は当日料金の半額。(証明書の提示が必要です)
開館時間 9:00~18:00(金・土は20:00まで) ※入場は閉館の30分前まで
休館日 毎週月曜日
主催 沖縄県立博物館・美術館
後援 沖縄タイムス社 / 琉球新報社 / 沖縄テレビ放送 / 琉球放送 / 琉球朝日放送 / ラジオ沖縄 / FMレキオ / 那覇新都心通り会 / 沖縄県教育委員会
共催 NHK沖縄放送局
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