1972年5月15日から50年―。

沖縄は先の大戦で戦場となって大きな戦禍を被り、戦後、施政権はアメリカ軍に移って27年間のアメリカ統治時代「アメリカ世ー」に入ることになります。
熾烈な沖縄戦を生き抜いた世代。アメリカ統治下で不平等や理不尽な状況と闘った世代。そして、平和な沖縄を托され生まれた復帰当時を知らない世代ー。
「復帰50年」といえど、ひとことではくくれないさまざまな思いが錯綜する2022年となっています。
ここおきみゅーでは歴史はもちろん、自然、民俗、考古、美術工芸、芸術など多方面から復帰を見つめる展覧会、イベントを開催します。
これまでの「琉球・沖縄」を振り返って、これから私たちが創り上げていきたい未来の沖縄の姿を想像しませんか?

「復帰」と私

Interview

おきみゅー田名館長

田名 真之

Masayuki DANA

沖縄県立博物館・美術館 館長

―復帰の日、1972年5月15日何をしていましたか?

‍1972年当時は、私は学生で沖縄にはいませんでした。5月15日は雨の日で式典がどうだったというのはリアルタイムでは経験していませんが、テレビのニュースで見ていて、いよいよ復帰かという思いはありました。

―復帰展にどのような思いを抱きますか?

復帰50年ということで復帰に関する展示をやるわけだけれども「復帰」を体験したのは私だけといえるのではないでしょうか。50年というのは結構な時間で、「復帰」を体験していない若い人たちにとっては、歴史でしかないんですよね。実際に体験した世界ではないので、展覧会を担当するということは難しいことだろうなという気もしますが、逆にそういう人たちが勉強して作っていく展覧会になると思います。また(展覧会を)見る方もほとんど体験者でない方々ということになるでしょう。

(展覧会の担当者は)復帰当時はどうだったかということを、親の世代から話をちゃんと聞けるかがカギになると思います。沖縄戦についても同じことが言われますが、体験者は言いづらいということがあり個人的な話にしかならないんですよね。そんなに簡単に総括されたくない、という思いがあるかと思います。

でも、後から生まれた人は、経験者の話からしか学ぶことができないと思います。今回、(復帰50年関連の)展覧会を担当する学芸員たちは、「復帰」を体験していないけれども、いかに自分の問題として考えるかだと思います。しかし、沖縄は基地にしても、復帰で状況が変わって解決したということはなく、今もずっと続いている問題なので、そういう意味では現状と絡めて「復帰」を考えることができるのではないでしょうか。展覧会担当者が、同世代の若い人たちに何を伝えたいのかということが重要だと思います。

―「復帰」にまつわる館長の思い出は?

私は1969年に大学に入学しました。当時は、国際反戦デーなどまだ学生運動や闘争が盛んで、それらと絡んで沖縄返還の話がありました。個人的な体験として、私は行きませんでしたが、新宿のデモに参加している人が周りにもいたのでカンパしたのを覚えています。
私の大学は学生運動で占拠されていたので入学式も卒業式もありませんでした。69年はそんな状況でした。皆デモをやり、機動隊ともぶつかっていましたし、授業が始まったのは9月になってからようやくでした。
夏休みに帰省した際には沖縄と鹿児島間の船にはいろんな学生がいました。船にはパスポート拒否闘争をやった学生たちもいて…。

―パスポート拒否闘争?

パスポート拒否闘争をやった彼らは沖縄に来てもパスポート提示を拒否して上陸できないんです。一部の人は下船しましたが、一部の人は船に残って、そのまままた鹿児島に戻ります。鹿児島でもまたパスポート提示を拒否するので向こうでも上陸できないわけです。こうして何日間も行ったり来たりしていました。

―エネルギッシュな時代ですね。

復帰前は高校生でしたが、そのときから周りでいろいろなことがありました。高校1年生のときに教公二法の闘争*がありました。学校の先生たちが立法院を占拠して機動隊と対峙していましたから、先生不在で授業がなくて…。今どきあり得ない状況ですよね?
高校3年生のときにはB52が墜落したし、それに伴う集会もありました。政治の時代でしたね。ノンポリ**の人もいないわけではなかったですが、でも皆政治のことに無関心ではいられない時代でした。

*教公二法の闘争
1967年2月24日にアメリカ占領下の沖縄の那覇市の立法院前で発生した事件。当時立法院では教育公務員の政治活動を規制する法律を審議していた。
**ノンポリ
nonpolitical(ノンポリティカル)の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。

微笑む田名館長パスポート拒否闘争の説明をする田名館長当時の思いにふける田名館長
沖縄の未来を思う田名館長田名館長が願い未来微笑む田名館長

―1972年当時、未来の沖縄はどうなると思っていましたか?

やはり基地が少なくなったり、縮小したりするのかなとは思いました。米軍が自衛隊と若干入れ替わるだろうというのはあったのですが、こんな状態が今まで続くとはちょっと想像していませんでした。米軍基地の問題は、結構今も残り続けています。あの当時は、もう少しなんとかなるのかと思ったのですが。

―館長が願う未来は?

基本は世界平和。もっと落ち着いた世の中になってほしい。復帰前後もベトナム戦争がありましたが、ベトナム戦争が終わったら世の中が少しは変わるかもしれない、ということは思いました。アメリカもベトナムから引き揚げているし、縮小している動きもあったので、もう少し落ち着いた世の中になるかと思いましたが、でも変わりませんでした。

人は新たな脅威を見つけるのが得意だから。米軍基地は、現在PFOS*をはじめとしたいろんな問題を抱えているし、未来はなかなかつらいと思います。日本は軍隊に対するプラスイメージがありませんが、他国は必ずしもそうではありません。アメリカでは独立戦争で軍事力を使って独立を勝ち取ったという歴史があります。中国もまた毛沢東が率いる軍隊が封建制を倒し、中華人民共和国を作りました。ロシアはロシア革命、フランスは市民革命がありました。そういった国にとっては、軍隊というのは必ずしもマイナスイメージだけではありません。あのとき軍隊が守った、皆で一緒に闘って守ったという歴史があります。

でも、日本の軍隊には侵略の歴史しかない。元寇くらいまで遡らないと、国を守ったという話にならないし、近代になると攻めた話しかありません。軍隊は攻めるものというイメージをなかなか変えられない。特に沖縄は沖縄戦があったので、軍隊にはマイナスのイメージしかありません。それを払拭することはできないと思うので、軍隊の力はできるだけ小さいほうがいい、という話になると思います。若い人たちがいい展覧会を作ることを期待しています。

おきみゅー大川副館長

大川 剛

Tsuyoshi OHKAWA

沖縄県立博物館・美術館 副館長

―復帰の日、1972年5月15日何をしていましたか?

私は当時5歳で、父母と名護に住んでいました。
外で遊ぶのが好きな子だったので、5歳ではあったのですが、小学生に勝負を仕掛けて毎日走り競争ばかりやっていました。応じないお兄ちゃん達は、自転車で逃げていくのですが、追いかけてかけっこを要求するという、そんな子どもでした。
当時流行っていたのが、仮面ライダー。塀に登ってはライダーキックをやっていました。宙返りができなくて、ソファーから飛んで、宙返りで立つことのできる子たちがとても羨ましかったです。

―当時のことで覚えていることは?

当時衝撃的だったのが、初めてテレビのリモコンが登場したことです。
懐中電灯のような大きさで、リモコンの1つしかないボタンを押すと、テレビ側のチャンネルの「つまみ」そのものが動いて番組が見られるという、非常に画期的な未来を感じるものでした。10メートル先からでもチャンネルが変えられるので、友達の家の庭に行って、友達の家のテレビのチャンネルを変えるといういたずらをやっていました(笑)。確か「ズバコン」という名前だったと思います。

―ずっと名護に住んでいたのですか?

いえ、しばらくして父の実家があった宜野湾市に移り住みました。父は遊び上手な人で、僕はよく父に連れられてボーリング場に遊びに行っていました。そのボーリング場ではハンバーガーを売っていたのですが、アメリカの雰囲気を味わえる一番ハイカラな食べ物という印象が私にはあって、それをよく食べてました。
ある日、父がスーツでパリッと決めて「剛、君はウサギを見たくはないかね?」と言って、「こんな夜にね?」と思って、父の友達も一緒にウサギを見に行ったら、出てきたのはなんとウサギの格好をした女性でした(笑)。ビールを運んでくる飲み屋さんに連れていかれて、「ほら、ウサギさんだよ」と言われたのを覚えています。私は父が夜飲みに出かけるダシに使われたわけですね。

―「復帰」という言葉を初めて聞いて、考えたことは何ですか?

「復帰」そのものについて、私の父と母は話していたとは思うのですが、私自身は幼かったこともあって、あまり考えになかった、漠然と捉えていた、というのが正直なところです。
当時はドルから円に替わるということだったのですが、父と母は円に換えるお金があまりなくて、非常に困ったということを聞かされたことがあります。ちなみに、当時、運転免許証は20ドルで買えたようです(笑)。

―運転免許証が20ドルで取得できたということですか?

いいえ。どうも当時のウワサでは、運転免許証を購入することができたらしいということです(笑)。父と母からそんなことを聞いたことがあります(笑)。

ズバコンの説明をする大川副館長照れながらお父様のお話をする大川副館長当時を懐かしむ大川副館長
アメリカ世を語る大川副館長海外に憧れていた子ども時代を語る大川副館長復帰当時の宜野湾市について語る大川副館長

―1972年当時、未来の沖縄はどうなると思っていましたか?

私は宜野湾市にいたのですが、アメリカ軍が常に身近にいたということは大きかったと思います。お父さんがアメリカ人という子たちが多くいた印象があって、やっぱりこうやって日本とアメリカの文化が混ざっていくのだろうなということは漠然と考えていました。小さいながら、これからの未来というのが私たち日本人だけじゃなくて、いろんな人種の人たちと混ざっていくのかなということを思っていたように記憶しています。青い目の同級生たちもいましたし。

音楽についても、私が名護に住んでいたときは、歌謡曲はよく耳にしていたのですが、普天間にいるときはロックがよく流れているような印象がありました。日本の歌謡曲とアメリカのロックが非常に混じりあっていて。家の近くに保育園があったのですが、そこにロックバンド「紫」のリーダーのジョージ紫さんがお子さんを預けに来ていましたね。ステージに出る格好そのままでしたよ。子どもの私たちは、よく「ムラサキだ!」「ムラサキだ!」と言っていましたね(笑)。

当時は大変幼かったので、未来がどうこうという考えはありませんでした。ただ、私はテレビに夢中だったので、テレビから流れるいろいろな世界の情報、例えば「兼高かおる世界の旅」などといったテレビ番組に思いを馳せていました。
将来は海外に出ていきたいな、という憧れがありました。それに、沖縄は欧米の文化と日本の文化の交差点だと思うんですよ。なので、沖縄にいる自分たちは、今考えればですが、他府県の日本人と比べて、世界へ出ていく垣根は低かったと思うんですね。
周りの友達も海外に行きたいとか、どこどこで働きたいなど、地元に固着する考えはあまりなかったようなイメージがあります。海外に出て華々しい活躍をしたいよな、と思っていました。そういう意味でいうと沖縄は、今の言葉でいうグローバル化に向けての文化の交差点になっていたと思います。子どもながらにそのようなことを漠然と考えていたと思います。

―ロックが流れていたという繁華街は、宜野湾市のどのあたりにあったのですか?

どこでロックが流れていたというよりは、普天間にはレコード屋さんが多かったですね。そういったお店から宣伝のために海外の音楽が流れていました。例えばカーペンターズとか。そこから、その当時のイギリスやアメリカのロックなどの音楽を知りました。
あのころ、普天間の本町通り、今の「ユニオン1号店」があるあたりに(当時ユニオンは「野嵩売店」といいましたが)商店街がありました。中城にあった乗馬クラブからアメリカ軍の将校さんが、馬に乗って本町通りをパカパカ走っているのをよく見ました。本当に、映画で見るようなカウボーイの格好をして、馬に乗っていましたね。

また、地域のイケているお兄さんたちは、トランザムといった憧れのアメリカ製のスーパーカーを乗り回していました。沖縄の瓦屋根のある風景にアメリカ製の車、それに加えて将校が乗った馬がいるという…。映画館も割と多くあって。非常にいろんなものが一緒くたに混ざっている、そんな地域でしたね。
射撃場もありましたよ。普天間神宮から普天間中学校へ向かっていく県道沿いに射撃場があって、実弾が撃てるレジャー施設でした。幼かったのでどのような人がいたのかはわからなかったですが、パンパンと銃声がよく聞こえました。

―大川副館長が願う未来は?

まず、一番は戦争がなく平和な未来を望みたいということですね。それから、気になっていることなのですが、今の若い世代の人たちが自分が描く未来に対して非常に合理的になっている、ドライになってきているという印象があります。おじさんはそう思うわけですね。そうではなくて、若い人がとんでもない夢を見られるような、希望を見出すことができるようなそんな未来があるといいなと思っています。
平和が担保されていないと、若い人たちは未来への希望が描けないと思うのです。お金が大事、仕事が大事とかそういうことではなくて、若者が未来に向かってちゃんと思いを馳せる、それに向かっていくことができるそんな未来ができるといいなと思う。そのためにはやはり平和が担保されていないといけないと思います。

―若い人たちに持つドライな印象というのは、具体的にどういうことでしょうか。

(去年まで赴任していた)学校現場にいて肌で感じたことは、教員になりたいという若い人がいなかったことです。つまり給料の補償はされているのだが、わざわざ精神的な苦労、時間的な苦労を伴ってまで、子どもを教える魅力がないと考えているように思います。教員になる人がとても減ってきているのを感じていています。でも、教育というのは、子どもたちがちゃんと未来に思いを馳せる、それを大人が伝える場だと思っているんですね。そうであるのに、教員になりたくないという人がとても少ないというのは、非常に悲しいことです。

ひょっとしたら、苦労をしたくないという、そんな若者が増えているのではないかと思います。リスクマネージメントですよね。私が大学生のころは、周りには、私も含めてですが「作家になるんだ!」と息巻いている人たちがたくさんいました。そして、大学の先生はよく「君たちは借金できるか?」と言っていました。借金できる奴こそが作家になることができると。今作家になっている人たちは、大学を卒業して二十歳そこそこで1千万、2千万の借金を負って工房を建ててやっている人たちがいました。借金があっても「返す!返す!」と前向きに夢に向かってやっている人たちでした。何も借金をすすんでやる必要を説いているわけではなくて(笑)!自分がどのような状況にあっても常に前向きに、そしてパワフルな心を持って、人生は「夢と希望をかなえるためのものなのだ!」と意気揚々と人生を歩んでほしいと思います。ぜひ、若者の皆さんがこれから未来50年間の主人公になっていく、素敵な人材となってもらいたいと願っています。

未来について語る大川副館長若人が大きな夢を持てる未来にしたいと語る大川副館長微笑む大川副館長
おきみゅー大川副館長

中里 智子

Tomoko NAKAZATO

沖縄県立博物館・美術館 副館長

―復帰の日、1972年5月15日何をしていましたか?

当時は小学1年生か2年生で幼かったので、ほとんど記憶がありません。かすかに覚えているのは、学校でニコニコマーク入りの筆箱をもらったということです。当時は、沖縄市の学校に通っていました。まさに、米軍基地のあるところでした。沖縄市の音楽教室に通っていましたが、今の一番街のところにバス停があって、基地の前の通りですので、そこは外国人が多くいて、子供心に怖いなと思っていた記憶はあります。やはり日常的に会話する相手ではなかったので、少しそういう思いはありました。転校して宜野湾市の第二小学校に通っていたとき、そこから見えるフェンスの向こうもやはり「特別な所」という気持ちがありました。

―「復帰」という言葉を初めて聞いて、考えたことは何ですか?

言葉としては周りに飛び交っていたと思うのですが、50年前は子どもだったので、意味はわかりませんでした。今年は復帰50年ということで、いろんな視点でマスコミなども特集していますよね。そういうものを見ていると、当時は理解しないまま通り過ぎていってしまった歴史的な出来事をあらためて勉強し直したいなと思っています。歴史の勉強というよりは、祖父母や両親がいて今の自分があるので、彼らの体験したことをたどっていって、自分のルーツを確かめ、土台を固めたいと思っています。

―復帰のときに、ドルから円に替わったことは覚えていますか?

テレビでは家中のお金をかき集めて、なかにはお金の入った甕を抱えて銀行まで走っていった人がいるという話がありました。90歳になる母がいるのですが、母に「そんなこともあったんだね?」と聞いたところ、「そうだったかねー?」と言って、あまりその出来事を覚えてはいませんでした(笑)。私自身も何ドルか握りしめて駄菓子屋に行った、という鮮明な記憶はありません。今になって振り返ると、もっと親にも復帰のことを聞いておけばよかったし、自分も子どもと話をすべきだったなと思います。

両親から聞いているのは、父は慶良間(座間味)の出身で、祖父は戦争で亡くなったこと。父は船乗りだったのですが、船酔いをするので、船乗りを辞めて本島に出てきて教師になりました。両親ともに教師でしたが、戦時中いろいろ体験してきてはいるのだけど、やはり辛い経験だったので、それを家族に話す機会はなかったんですね。復帰についても、もう親の記憶は定かではなくってしまい、話を聞くチャンスを逸したなと残念に思っています。

博物館・美術館は展示を通して、先人の思いを次世代に伝えるという役割があります。おきみゅーでは今年の復帰50年にあたって、復帰前と後の歩みを振り返ってこれからの未来を考える展覧会を開催しているので、ぜひ多くの方に見てもらって、感じたこと考えたことをご家族で話し合ってほしいです。なかなか日々の生活のなかでこういう話をする機会は持てません。私自身反省するところだったので、復帰から50年経って、両親、あるいは祖父母が思い描いていた沖縄になっているのかなとか、では自分はどう未来を考えているのかなというのを、展覧会を見ていま一度考えるきかっけになるといいなと思います。

当時の様子を思い出す中里副館長戦争中のご両親のお話をする中里副館長先人の思いを次世代に伝えるのが博物館・美術館の役目
沖縄のみんなが何よりも望んでいたこと、それは平和。未来について語る中里副館長未来について語る中里副館長

―未来の沖縄はどうなると思いますか?副館長が希う未来とは何ですか?

当時の人はいろいろな思いを持っていたと思います。私自身はあまり記憶がないのですが、やはり皆が望んでいたことは、平和で安心して生活できる社会の実現だったと思います。私自身もこれから先の社会は、平和で自分自身を大切にし、他者を尊重することのできる社会であってほしいです。今年の展覧会やイベントを通して、沖縄の歴史文化を平和な未来を担う次世代につなげていきたいです。

―他者を尊重することは、まさに今の世界に求められている大事なことですよね?

ここ数年の未知のウィルスとの闘いだったり、また現在の進行中のウクライナでの戦争ですとか、今はいろんな問題があります。そして、これからもさまざまな課題や問題が出てくると思うのですが、そうしたことを考える上でも、展覧会を通して歴史を振り返り、今の立ち位置で、今後自分たちがどうしていけばいいかということを考えるためのいろいろな気づきが得られるのではないかと思っています。

復帰50年関連展示

Exhibition

復帰50年沖縄復帰前展 復帰 前夜ー。希う、未来。

会期:2022318日(金) ~ 821日 (日)

戦後27年間にわたりアメリカ合衆国の施政権下にあった沖縄。広大な米軍基地の存在と駐留する米軍兵士の相次ぐ事件事故、軍事優先政策に対し、平和を希求し復帰・反基地運動を展開した沖縄の復帰前の姿を様々な資料を通して紹介します。

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■復帰50年 特別展『沖縄、復帰後。展 ーいちまでぃん かなさ オキナワー

会期:2022720日 (水) ~ 919日 (月・祝)

沖縄が日本に復帰して50年という節目を迎えます。戦後27年間の米国統治を経て復帰したことは「世替わり」というほどの大きな転換点であり、復帰後50年は復興・成長・変化・継承・存続など沖縄は様々な経験をしてきました。1972年5月15日を起点に復帰後のあゆみを振り返りつつ、次の世代に向けて自然・歴史・文化等の多様な面から沖縄について考える展覧会を開催します。

詳細ページ 「復帰」と私

復帰50年コレクション展『FUKKI QUALIA (フッキ クオリア) ―「復帰」と沖縄美術

会期:2022720日 (水) ~ 2023115日 (日)

当館のコレクションを中心に、日本への「復帰」に関連した沖縄の作品を紹介いたします。美術家たちの「琉米親善」の動きから、復帰前後の状況を鋭く批評した作品、さらに復帰後の社会を見つめた作品や、本土化する中で沖縄なるものを探し求めた動きなど、現在につながる「復帰」について考える機会といたします。

真喜志勉《大日本帝国復帰記念》1972年

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復帰50年展『琉球-美とその背景-

会期:20221014日 (金) ~ 124日 (日)

琉球の栄華の象徴ともいうべき美の世界とその背景を探ることをメインテーマに県内初公開の資料も含め、戦災を免れた琉球・沖縄関係資料を過去最大規模で公開します。琉球王国時代の資料を通して、歴史的背景や文化的背景も含めて琉球の美の成り立ちを伝えることで、私たちのアイデンティティたる「琉球」を再考する展示を行います。東京国立博物館及び九州国立博物館と共催のもと、復帰50年を迎える2022年に「琉球」を振り返ることで、今とこれから先の沖縄を考える展覧会とします。

《朱漆巴紋牡丹沈金御供飯》
(県指定有形文化財)16~17世紀

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復帰50年『平良孝七

会期:2022113日 (木) ~ 2023115日 (日)

平良孝七(1939-1994)は、沖縄県大宜味村生まれの写真家です。1970年、『写真集沖縄 百万県民の苦悩と抵抗』を刊行。1976年、『パイヌカジ』で第2回木村伊兵衛写真賞を受賞します。その後も平良は様々なテーマで沖縄を撮り続けました。沖縄の日本への「復帰」を見つめ、激動の時代にありながら沖縄の「基底」をまなざそうとする平良の写真は、いまなお強度を持って観る者に問いかけます。本展はその写真を振り返ります。

平良孝七《71.9石垣島》1971年 名護博物館蔵

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