2026 年の今年は、「沖縄学」の父として知られる伊波普猷(1876-1947)の生誕150 年にあたります。
伊波普猷(1876-1947)
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
(
https://www.ndl.go.jp/portrait/)
言語学や民俗学・歴史学における業績で知られる伊波ですが、彼は考古学にも早くから関心を寄せていました。その背景には、琉球の歴史を伝承や文献だけでなく、「物的証拠」から明らかにしようという科学的視点がありました。
1903 ~ 1906 年にかけて東京帝国大学で言語学を修める傍ら、1904 年には、当時黎明期にあった日本の人類学研究のパイオニアの一人、鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)(1870~ 1953)の琉球調査に同行し、彼の問題意識や研究手法を間近に学びました。
鳥居はこの調査の際に、城嶽(ぐすくだけ)、伊波(いは)、荻堂(おぎどう)、天願(てんがん)の四貝塚を発見、記載し、日本本土と琉球には同様の石器時代文化
(註1)が分布していたことを指摘しました。その上で、琉球神話の阿摩彌姑(あまみこ)種族と日本神話の天孫(てんそん)種族は同じルーツをもつとし、いわゆる「日琉同祖論」の観点から、沖縄人は日本人と最も親しい系図的種族であると述べています(鳥居1905)
(註2)。
現在でも、東京大学総合研究博物館には鳥居の収集品とともに、伊波が沖縄本島や石垣島で収集した考古資料(土器・石斧類)が残されています(安里ほか1996)。また近年、九州大学総合研究博物館の玉泉館旧蔵資料(大井七郎コレクション)中にも、伊波が収集した考古資料(石斧類)3点が含まれていることがわかりました(山崎ほか2025)。
(註1)鳥居はこれを先住民=アイヌの文化と考えていました。
(註2)その後、人類学・考古学研究の進展により、石器時代人と現代日本人との連続性が広く受け入れられるようになり、同祖関係を石器時代以来のものとみなす見解も示されるようになっていきました。
大井七郎(1868 ~ 1920)は、山口県山口市出身の法曹で、那覇地方裁判所に勤務していた明治末~大正はじめに、旧慣調査のかたわら考古資料も収集しており、その中には1913(大正2)年11 月に、当時沖縄県立図書館長であった伊波普猷から譲り受けた石器3点が含まれています。
また彼は、同年同月に浦添城跡で瓦類(高麗系瓦等)を採集しています。伊波の「土塊石片録」(1908(明治41)年9月「琉球新報」掲載、『古琉球』(伊波1911)所収)によれば、1907(明治40)年夏、東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)とともに浦添城跡において「癸酉年(みずのととり)高麗瓦匠造(こうらいがしょうつくる)」の銘のある瓦片を採集したことを記しており、本資料中に含まれる瓦類は、伊波自身の情報提供または現地案内にもとづいて収集されたものと考えられる点で貴重です。
1913 年11 月浦添城跡採集の「癸酉年高麗瓦匠造」銘のある瓦
九州大学総合研究博物館蔵/玉泉館旧蔵資料(大井七郎コレクション)
(出典:山崎ほか2025)
『古琉球』には、勾玉や煙管、進化論といった物質文化や科学的視点を扱った記事も収録されており、当時、新進気鋭の知識人だった伊波の啓蒙的視点がうかがえます。先史・古代の文化や遺物に関する伊波の視点には、今日の観点から見れば誤解や偏りも見受けられますが、伊波にとって、考古遺物は文字記録以前の琉球の歴史像を復元するための重要な手がかりであり、伊波の収集活動は、後の沖縄考古学の萌芽と位置づけることができます。
伊波は、同じく『古琉球』(伊波1911)に収録された「オモロ七種」と題した文章中で、「眼を琉球民族の物質的遺物の上に転じてみると、其処には宮殿の一の石も石の上に圯(くず)されずして遺るのはない。しかもその精神的産物なるオモロのみは、一点一画も廃れずして遺っている。ああオモロの研究もまた有益にしてかつ趣味ある事業ではあるまいか。」(「オモロ七種」(伊波1911))と記しており、以後、彼はオモロの研究にいっそう傾倒していくことになりました。
(参考文献)
安里嗣淳・丑野 毅・小田静夫・新里 康1996「東京大学総合研究資料館所蔵沖縄発見石斧一覧」『沖縄県立図書館史料編集室紀要』21:35-80 頁
伊波普猷1911『古琉球』沖縄公論社(2000 年の岩波文庫版(外間守善校訂)を参照)
鳥居龍蔵1905「沖縄諸島に住居せし先住人民に就て」『東京人類学会雑誌』20(227):235-244 頁
山崎真治・福永将大・片多雅樹2025「玉泉館旧蔵資料中の琉球関係資料について」『九州大学総合研究博物館研究報告』22:1-18 頁
博物館班