2024年の春、琉球国王の絵画がアメリカで発見されたというニュースは大きな話題になった。おかげで琉球絵画の名も少しは知られただろうか。琉球には日本絵画とも中国絵画とも異なる独自の絵画様式があり、国王の肖像画である御後絵、花鳥画、山水画など個性ある作品が、王府の絵師たちを中心に制作された。廃琉置県によって王府がなくなっても、絵師たちは作品を制作するとともに、生き証人として琉球国時代の仕事、絵師科とよばれた絵師の登用試験などの思い出や、先輩絵師について言葉や文章を残している。こうした生き残りの絵師の一人、長嶺華国に触発された新聞記者の末吉安恭によって、20世紀初頭に琉球絵画史研究が始まる。
首里城から見た三個(那覇市歴史博物館提供)
その後、末吉に影響を受けた鎌倉芳太郎や比嘉朝健らが主導し研究が進められていった。しかし、順調に進んでいたかのように見えた琉球絵画史研究は沖縄戦で一変する。かつて柳宗悦が日本一美しい城下町と述べた首里は、首里城地下に第32軍司令部壕が築かれたため、アメリカ軍の標的となった。そして、蓄えられていた美術作品のほとんどが王都首里とともに灰儘に帰したのだ。沖縄戦直後、首里に入ることが許された人たちの話を聞くと、雪が降ったようにあたり一面真っ白であったという。琉球石灰岩の大地が粉々になるまで砲弾を浴びせられたのである。
破壊された首里(那覇市歴史博物館提供)
オリジナル作品を扱うことが絵画研究のセオリーであるなかで、戦後の琉球絵画史研究は、非常に困難な状況にあった。研究をリードするはずであった末吉は戦争が始まる10年前の1924年水難事故で亡くなっていた。比嘉は1926年に上京し1945年に帰郷することなく奈良で病没していた。作品だけでなく人材も失われたのだ。一人残っていた鎌倉は1936年の発掘調査を最後に日本復帰直前の1971年まで沖縄へ渡る機会を失っている。また、戦後から日本復帰までの鎌倉の活動はどちらかというと型絵染の製作が中心となっていた。
こうした状況が変わるのが『沖縄文化の遺宝』(岩波書店、以下「遺宝』)が刊行された1980年代からである。『遺宝』には鎌倉によって撮影された首里の寺院や美術工芸品とともに、御後絵をはじめとする琉球絵画の白黒写真が数多く収録されている。『遺宝』に収録された御後絵はさながら曼茶羅のようで、中国の皇帝に似た衣冠を着用した国王を中心に、様々な道具を手にした家臣達が取り巻き、さらに背景には宮殿と思われる場所が細かく描写されている。肖像画であれば、国王一人をしっかり描けば、その威厳を表現するのに十分である。しかし御後絵には、琉球国王が「何を描いているか謎を解いてみろ」と鑑賞者に出題しているかのように様々な図像が描かれている。こうした御後絵の謎に答えることが、1990年代以降の琉球絵画史研究の一つのテーマとなっている。
筆者は2024年の3月に肖像画を中心にその研究をまとめた『琉球国王の肖像画「御後絵」とその展開』を上梓した。国王の衣冠や家臣の持ち物、そして背景に描かれた衝立などの図像の意味について現段階で知り得る限りの知見を盛り込んだ。しかし戦前に撮影された白黒写真を研究の対象としていることから自ずと限界があり、図像の分析のみで色彩については触れることが出来なかった。ところが、本書が刊行されてからすぐ後、3月15日に冒頭で触れた驚くべきニュースがアメリカからもたらされた。4点の御後絵が奇跡的に発見され、79年ぶりに沖縄に帰ってきたのである。
拙著で詳細を論じたが、御後絵は「明代の国王の御後絵」と「清代の国王御後絵」の2つに分類することが出来る。中国の王朝交代によって、衣冠制度が大きく変わることがこの違いの要因の1つである。今回帰ってきたのは、明の国王の御後絵が2枚(尚清王、国王不明)。清の国王御後絵が2枚(尚敬王、尚育王)である。しかも尚清王と国王不明のものは戦前にも撮影されておらず、これまで知られていなかった。残念なのは4枚とも状態が悪く、公開が難しいことだ。特に国王不明のものは3分割された状態で、すれて顔も分からなくなっている。そのため、修理が急務となっており現物の研究はもう少し先になりそうである。
『謎の国王御後絵』
(沖縄県教育庁文化財課提供)
明と清で国王の衣冠が異なるのは先述したが、これまで知られている御後絵の国王の冠は、若干形態の違いがあるもののいずれも皮弁冠として描かれている。ところが、不明の国王の冠は烏紗帽となっている。皮弁冠は冊封を受けてはじめて国王がかぶることが出来るものである。そのため、多くの研究者は謎の国王を、明が滅亡したため冊封を受けることが出来なかった尚賢王と推定している。
2024年の5月に4枚の御後絵の写真パネルのお披露目があり、まじまじと国王不明のパネルを見ていたら、顎髭の存在に気づいた。東アジアの多くの国々と同じように、琉球で髭は成熟した男性を示すものであった。琉球の士族は20歳になると口髭を蓄え始め、35歳前後には顎髭を伸ばす慣習があったという。尚賢王は数え23歳の若さで逝去した。描かれた顎髭の存在が気になる。髭の習慣は、国王と士族など身分の違いも考慮に入れる必要があるが、描かれた人物を判断する一つの材料になる。今後、修理の過程で様々な調査が行われ、不明の国王の顔についても、もう少し具体的なことが分かっていくだろう。御後絵を修理し公開していくなかで私たち世代が1番に考えるべきことは、1度失われた作品を責任をもって後世へ残していくことである。そのためには、慎重な対応が求められる。
※思文閣出版『鴨東通信』(No.119、2024年9月)より一部修正して転載
(沖縄県立博物館・美術館主任学芸員 平川信幸)
博物館班 平川信幸