2014年に国立公園へ登録された慶良間諸島は豊かな自然に育まれた20余りの小さな島嶼群からなっています。この慶良間諸島は亜熱帯の豊かな珊瑚を見ることができるダイビングスポットが点在し、また毎年冬にはクジラが周辺海域を周遊することから、ホエールウォッチングを楽しむために多くの観光客が集まります。
その島とは慶良間諸島の東端に位置する前島です(図1)。この島は6000×400mの南北方向に延びる小さな島で、令和5年現在では前島に住民登録がなされていないことから無人島としてみなされています。
図3 前島ならびに前島集落位置図
前島を含む慶良間諸島は琉球王国と中国大陸を往来するための航路上に位置する島々でした。13世紀後半ごろから沖縄本島と中国大陸を往来する航路が見いだされ、14世紀後半には朝貢交易のための航路として確立されていきました。朝貢交易での中継地点として、以降は慶良間諸島が琉球史の表舞台に立つことになります。
詳しくは過去の学芸員コラムにて紹介しておりますので、詳しく知りたい方は下記URLをクリックしてください。
学芸員コラム 倭寇について考える⑨―多島地域を海から見ると―
http://okimu.jp/museum/column/1714005457/
1740年代に琉球王国により編纂された史書『球陽』にて1644年、琉球王国により烽火が前島に設置されたという記載があることから遅くても17世紀には有人島であったことが窺えます。琉球王国が設置した烽火は沖縄本島と中国大陸を往来する進貢船を出迎えるため、さらには不審船の発見を首里城までいち早く知らせるための通信施設としての役割を担っていました(写真1)。このことから前島は久米島から沖縄本島を結ぶ烽火の連絡ルート上に位置する琉球王国にとって無視することができない島であったと言えます(写真2)。
写真1 渡嘉敷島から烽火を上げたとされる山(火立山)

写真2 洋上から見る前島遠景(東から)
2.琉球王国と深くかかわる前島集落の歴史
1651年に完成した正保国絵図には「前けらま嶋 人居有 嶋廻廿五町」と前島が描かれた箇所に記されています。すでに17世紀には前島に集落が存在していたことを想像させる内容であることが解ります。1851年には前村の當眞筑登之親雲上という人物が国王から褒章を受けたことが『大島筆記』に見ることができます。また、琉球王国が鹿児島藩へ早船で連絡するための水夫で前島から「新垣筑登之」や「宮城仁屋」という2名の名前を他の史料から見ることができます。上記以外にも前島と琉球王国との関りが見て取れる史料をいくつか見ることができます。
明治時代以降になるとカツオ漁が盛んになり前島にも多くの人々が移住するようになると共に、島の人口が増加していきました。しかしカツオ漁も戦後に衰退したことから、島からの人口流出がおきるようになります。その流れは止むことなく1962年に沖縄諸島を襲った台風による被害もあって、前島集落住民全てが島から離れることになりました。それは前島が無住の島になると共に前島集落の歴史に幕が下ろされることを意味していました。
その後は断続的に前島集落に住居を構える人がいましたが、かつての集落の活気を取り戻すまでには至っていません。
3.今に残る前島集落の痕跡
前島集落は廃村となって現在まで60年以上の時が経過しています。現在、島を訪れるとかつての集落の痕跡を辿ることができます。それは集落の屋敷を囲っていた石積みや集落内を通っていた道(写真3)、更には井戸跡や学校跡(写真4)、広場、古墓(写真5)も見ることができます。屋敷内の家屋は全て失われてしまっていますが、それでもこれらの痕跡からかつての集落の姿を偲ぶことができます。

写真3 現在見る前島集落内の道 写真4 渡嘉敷小学校前島分校跡
写真5 集落の北側にある古墓
また、拝所とされる場所が10カ所以上残されており、その全てではありませんが現在もかつて前島集落住民の方々が毎年、拝みに来ている拝所も見ることができます。そのような拝所を訪れると下草が刈られているので、聖域として機能し続けていることが窺えます。
次回は前島集落跡の詳細について更に踏み込んでいきたいと思います。
(次回へ続く)
主任学芸員 山本正昭