亜熱帯に位置する沖縄の島々を縁取るサンゴ礁(裾礁)(図1)は、古くから人々のくらしと関わってきました。生物多様性の高いサンゴ礁域では、さまざまな魚介類を利用することができるだけでなく、サンゴの骨格(図2)自体も、沖縄のいたるところで石積みの材料や建築資材として利用されてきました。また、沖縄県土の面積の約1/3を占める石灰岩も、大昔のサンゴ礁が隆起してできた岩石であり、サンゴ礁がもたらした恵みと言えるでしょう。
大規模なサンゴ礁と石灰岩の分布は、おおよそ奄美~トカラ列島を北限としていますが、さらに北に位置する種子島でも、サンゴ石がさまざまな形で利用されてきました。例えば、種子島の南種子町にある広田遺跡(図5・6)では、1700~1300年前頃のお墓が数多く発見されており、150体を超える人骨とともに4万4000点以上の貝製装身具・装飾品が出土し、しかも遺体の周囲には白いサンゴ石が配置されていました。広田遺跡の人骨と出土品は、広田遺跡に隣接した
広田遺跡ミュージアムで見学することができますので、ぜひ機会があれば足を運んでみてください。
図5 種子島広田遺跡の風景。白い標柱が人骨出土地点。
図6 広田遺跡のモニュメント(金関丈夫 筆)。
また、種子島北部の西之表市にある
赤尾木城文化伝承館「月窓亭」(大規模改修工事のため、2024年10月から当分の間、休館)では、門の周囲にサンゴ石を積み上げた石垣が見られ、この事例は、サンゴ石を積み上げる石垣の文化の北限にあたります(図7)。石垣のほかにも、庭園にはサンゴ砂利が敷かれ、庭石にもサンゴ石が用いられています(図8)。
「月窓亭」は、種子島で代々名士を輩出した羽生家の屋敷であり、明治19年以降は種子島家が居住した由緒ある邸宅です。門構えや書院のつくり、庭園などに薩摩武家文化の文化の様相が認められ、種子島は日本の武家社会の南限の地となっています。
以上の事例から、種子島の人々の間でも、サンゴに特別な思い入れがあったことがうかがえます。
図7 「月窓亭」のサンゴ石の石垣
図8 サンゴ砂利が敷かれた「月窓亭」の庭
長崎県壱岐のサンゴ石文化
さらに、昨年8月に長崎県の壱岐を訪問した際に興味深いものを目にしました。郷ノ浦港の一角では、いろいろな形の石と一緒に枝サンゴ塊がお祀りされています(図9)。この事例は、サンゴ石文化の北限になるのかも知れません。黒潮から分岐して日本海に流入する対馬海流に取り巻かれた壱岐・対馬海域のサンゴ礁は、世界最北限のサンゴ礁と言われています。同じく郷ノ浦港の一角にある、安政6(1859)年の遭難事故を供養する「五十三霊得脱之塔」には、サンゴ塊を刳りぬいた香炉が置かれていました(図10)。
壱岐の漁民たちは、春先に吹く南方からの暴風を「春一番」と呼んで以前から恐れていましたが、この安政6(1859)年の遭難事故以降、毎年事故が起きた旧暦二月十三日には、沖止めをして海難者の冥福を記念する行事が行われているそうです。現在では「春一番」は気象用語として定着していますが、その発祥の地は壱岐なのです。
図9 郷ノ浦港の枝サンゴ塊
図10 「五十三霊得脱之塔」
安政6(1859)年の旧暦二月十三日におこった強烈な南風によって遭難した53名の漁民を祀る慰霊碑。サンゴ塊を刳りぬいた香炉が置かれています。
おわりに
今回は、沖縄から種子島、壱岐と、サンゴとサンゴ石にまつわる文化を紹介してみました。サンゴというと奄美・沖縄のイメージが強いのですが、南北1000km以上にわたってこのような文化が分布していることは興味深いところです。今後もひきつづき、こうした事例の掘り起こしに取り組んでみたいと思います。