最終更新日:2024.09.25
(前回からの続き)
以前に当コラムにて宮古島の狩俣集落が石積みにかつて囲まれた集落であったことを紹介しました。以下にそのコラムのURLを示しておきますので、本コラムを読み進めていく前に見ていただければと思います。
https://okimu.jp/museum/column/1720052826/
今回はこの狩俣集落の発掘調査成果についてまとめたエントランス展示について、その内容を触れていきたいと思います。
令和6年9月25日から開催されるこのエントランス展示は過去に武蔵大学石井龍太研究室が行った発掘調査の成果について広く公開するものであり、この発掘調査で出土した中国産陶磁器や宮古式土器といった遺物の展示や発掘調査の詳細をパネルにて紹介していく内容となっています。
この展示は準備期間がかなり限られていることから事前に武蔵大学石井龍太研究室との打ち合わせを何度も重ねながら、そして他の当館学芸員のお力添えもあり、展示初日までに何とか間に合わすことができました。毎度のことではありますが、展示パネル、展示資料のサイズに合わせてそれらの配置を考慮し(写真1,2)、それに合わせた展示ケース、パーテーションの準備を行うなど、展示前にやっておくべき作業は多岐に及びます。
写真1 展示資料の確認作業
写真2 展示パネルの開梱・確認作業
それらの準備を終えると展示パネル設置作業とお決まりの展示資料の陳列作業に取り掛かります(写真3,4)。展示作業以外にも展示開幕日には展示解説会を実施する予定となっているので、それに向けた事前の打ち合わせも行わなければいけません。
写真3 展示パネル設置作業
写真4 展示資料の陳列作業
今回は狩俣集落の遺跡や久場嘉城跡といった埋蔵文化財について取り上げた内容となっていますが、そもそも埋蔵文化財とは何か。簡単に言うと、土地に埋もれてしまっている遺物や遺構といったかつての人々の活動がわかる痕跡、すなわち遺跡全般を指します。
このような土地は「周知の埋蔵文化財」と呼ばれており、これらに関わる遺構や遺物、そして調査成果は貴重な国民の財産として位置づけられています。そのため、国民へ広く公開されることが望まれています。
今回の展示もこのように広く埋蔵文化財の公開をしていく目的の下で実施しています。
琉球王国で最も古い文字資料は『安国山樹花木之記碑』に刻まれている碑文で1527年に建立されたと考えられています。15世紀まで遡る琉球王国にまつわる記録はごく僅かで、14世紀以前の記録は全て近世以降に書かれたものになります。そのため、14世紀以前の琉球については遺跡の発掘調査成果によるところが大きいと言えます。倭寇が活動していた時期に琉球列島ではどのような動きがあったのか、そして対外的にどのような関係性であったのかについては、これまで海外の文献資料などを駆使しながら明らかにしてきましたが、それでも限界が出てきてしまいます。
このように倭寇と琉球との関係についても分からない部分が多くありますが、埋蔵文化財の調査成果が唯一の手掛かりとなってくるものと言えます。その意味でも遺跡調査の進展によって倭寇の活動について明らかにできる部分が多くあることは言うまでもありません(写真5)。
写真5 倭寇の根拠地と考えられた宮古島・上比屋山遺跡
主任学芸員 山本正昭