1. 倭寇について考える②

倭寇について考える②

最終更新日:2023.08.07

1.はたして間に合うのか、学芸員講座

 来る令和5年9月2日(土)の学芸員講座は令和5年度博物館企画展のプレイベントとして『倭寇関連の史跡を読み解く』と題した講演を行う予定です。現在、当講座に向けて資料を営為作成中ですが展示の準備と並行して行っているため、首が回らない状態となっています。それでも時間は過ぎていくものなので、何とか当日には間に合わせるよう四苦八苦しています。今回は講座に向けた話を少し書き綴っていきたいと思います。

2.今回の『琉球と倭寇のもの語り』を行うきっかけとなったもの

 令和5年度博物館企画展を実施するきっかけは琉球列島各地に分布するグスクと中国大陸沿岸部にある城郭遺跡と何がどのように異なっているのか、の疑問を解くために実際に福建省各地を訪れたことになります。無謀にも沖縄県内の某大学のお偉い先生に運転をお願いして、福建省沿岸部を南北に縦断する形で各地の城郭遺跡を訪ね歩き、つぶさにその形態を観察したのですが、琉球列島のグスクとは全く異なる城郭の形がそこにはありました。
 そこにあったのは基本的に集落もしくは都市を抱え込むように城壁で囲み込む形の城郭であり(写真1,2)、集落の首長もしくは有力者の居住地のみを防御するような城郭を見ることができませんでした。これらの多くは16世紀に倭寇対策のために築かれた城壁であるとされており、そのほとんどが海から徒歩で行ける場所に立地していました。


写真1 福建省・瀲城堡の城門                               
写真1 福建省・瀲城堡(れんじょうほ)の城門 (クリックすると拡大します)     

写真2 閭峡城堡城壁(りょきょうじょうほじょうへき)
写真2 閭峡城堡城壁(りょきょうじょうほじょうへき)(クリックすると拡大します) 
 

3.倭寇に対抗した集落の人々

 倭寇は村々を荒らして回った人々である印象が強いですが、平時は武装化した商人であり、様々な物資を取引していました。その物資の一つとして「人」がありました。すなわち襲撃した集落から人を攫い、様々に地域で取引の対象とする人身売買が倭寇によって行われていました。今では考えられませんが、資源として人を倭寇は取引の対象としていたことは当時において東アジア各地で見られ、さながら湊町は奴隷市場の様相を呈していたと言っても大げさではなかったものと思われます。
 このことからも集落住民は自己の財産だけでなく自身そのものを必至に守る必要があったことが、集落の周囲に城壁を築いていくことの動機に繋がったものと思われます。
 今に残る集落の城壁は6m以上の高さを誇るものも見られ、また出入り口は数カ所に限定されているのを確認することができます。加えて、城壁上にスペースを設けていることから、的確に守備する地点へ移動することができるようになっています(写真3)。


写真3 八堡城堡の城壁上(はちほじょうほ)
写真3 八堡城堡の城壁上(はちほじょうほ)(クリックすると拡大します) 
 

4.倭寇が出現する地域とは

 福建省でも北部の沿岸部に上記のような城郭が多く分布していることから、倭寇の活動が盛んな地域であったことは想像に難くありません。この沿岸部は非常に複雑な海岸線であるリアス式海岸となっており、波待ちや風よけのために船を停泊させるのには好都合な入り江がたくさん見ることができます(写真4)。内海となっている場所も多く見られることから、小さな船による移動も比較的容易であったものと思います。
 1616年に中国にて刻本された『五雑俎』は福建省長楽県出身である謝肇淛の随筆になります。当書の「地部」には中国大陸南部の沿岸部についてその様子を記しています。中でも海上にて商売をする船「販海之舟」について「為疎竹筏 半浮半沈水上 任従風潮波浪」とあるのが注目されると共に、同じ光景を現在もこの沿岸で見ることができます(写真5)。
 この記述から見えてくるのは、舟による海上での移動を得意とする人々が中国大陸南部の沿岸部各所にいたことも、倭寇が出現する背景にあったようにも思われます。


写真4 福建省沿岸部の地図            
写真4 福建省沿岸部の地図 (クリックすると拡大します)    

写真4 筏の舟で航行する人々
写真5 筏の舟で航行する人々(クリックすると拡大します) 
 

5.倭寇になる人々の背景

 16世紀中頃に倭寇の頭目として各地で活動していた王直や徐銓は元々、塩を運んで商売をしていました。塩づくりは自然の環境下に左右されるため、とても不安定な生産体制でした。塩の販売業が上手くいかず、王直や徐銓はともに倭寇としての活動へ身を投じていくことになりましたが、このような生活に窮する人々が沿岸部に多く存在していたことも倭寇が現れてくる元凶になったとも考えられます。
 16世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれていますが、その構成員について日本人は3割ほどであったと『明史』には記されています。倭寇とはいうものの日本人は少なかったのが、この時期の倭寇の特徴であり、密貿易に従事する武装商人は様々な人々で構成されていたものと思われます。
 今回の学芸員講座ではこの部分まで話ができるか分かりませんが、スライドを使いながら倭寇が頻発していた地域の話を中心にしていきたいと思います。
 
※学芸員講座の詳細については以下
https://okimu.jp/event/1679814406/
 

主任学芸員 山本正昭

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