1. 尚巴志王が国王となったことの意味

尚巴志王が国王となったことの意味

最終更新日:2022.12.20

1.はじめに

 12月26日をもって尚巴志王即位600年を記念したミニ展示『英雄 尚巴志』展は閉幕をむかえますが、令和4年は沖縄県復帰50年という大きな節目の年であったことは、あまり世間に注目されることはありませんでした。こちらの広報が足りなかったことなど反省点がありますが、それでも多くの方にこの展示を観覧していただきました(写真1)。また、展示に関連して開催されたシンポジウムや講座、史跡めぐりについても多くの方々が参加申し込みをしていただきました。
 
今回の展示については以下のような構成になっていました。
 はじめに
1.尚巴志とは
2.尚巴志をめぐる8人
3.尚巴志ゆかりの地 10選
4.第一尚氏王統の動揺と滅亡
 おわりに
 
 沖縄県立博物館・美術館から始まった今回の展示は尚巴志が生誕してから亡くなってからの第一尚氏王統が滅びる1470年までを紹介していく内容となっておりましたが、琉球史において尚巴志が王位に就いたことはどのような意味を持っているのか今一度、触れていきたいと思います。
英雄尚巴志展の展示の様子
写真1.英雄尚巴志展の展示の様子

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2. 成り上がり者としての尚巴志



 

 1422年に尚巴志が琉球国中山王に即位するまでには、その勢力を劇的に増幅させていったことが彼の来歴を特徴づけるものとして挙げることができます。
 その父、思紹の役職である佐敷按司を尚巴志が引き継ぐ際には伊覇按司の後ろ盾が無いと叶わなかったほどの脆弱な勢力基盤であったのが、1402年に山南王の拠点である島添大里グスク(写真2)を落として勢力を拡大し、5年も経たないうちに首里城ならびに浦添グスク(写真3)を拠点としている中山王の察度を斃すといったような、短期間で急成長を遂げていきます。
 上記の話は後世の史書に記されており、脚色が加えられた可能性も十分に考えられるため、検討する余地はあります。しかし、これらから読み取れることは沖縄本島南部の一角を占めるに過ぎなかった新参者が急激に力を付けて国王にまで転身していったことが分かります。14世紀後半からは沖縄本島各地で争いが行われた戦乱の時代であったが故に、尚巴志は実力で成り上がっていったことが想像されます。
島添大里グスク主郭遠景
写真2.島添大里グスク主郭遠景

中山の王都の一つとされる浦添グスク
写真3.中山の王都の一つとされる浦添グスク
 

3.尚巴志の父、初代国王へ

 中山王である武寧を斃し、父である思紹が1406年に第一尚氏王統の初代国王として即位
しました。中山王という王号が武寧から思紹に引き継がれたのは中国・明朝との交易による利潤が大きかったことと、思紹も明朝という後ろ盾によって権威を高めていくことを意図していたことは容易に想像がつきます。思紹が崩御した翌年の1422年に尚巴志は中山王を父から引き継ぎ、明朝との関係を維持していくことになります。
 琉球王国の国王が即位する際は中国・明朝から冊封使を呼ばれる使節が派遣され、首里城において冊封の儀式が執り行われて正式に王位に就任することとなります。その冊封の儀式を執り行うためには中国・明朝と頻繁に取り次ぐ必要が出てきます。その役割を担ったのが琉球王国の長史、国相であった王茂という人物になります。王茂は現在の那覇市久米村に移り住んできた中国人で思紹が国王に即位して以降、外交面で活躍します。また、尚巴志が国王に即位してからは王茂から懐機という、同じく久米村へ移り住んだ中国人が外交面を担っていくようになります。
 このように明朝との関係を円滑に進めていくことが王位に就く、もしくは踏襲するためには絶対的な条件であったと言え、必要な外交上の手続きを経て初めて国王に即位できました。反対に、勝手に自らを国王と名乗ることはできませんでした。

 

4.忘れてはいけない国王を支えた人々

 尚巴志が国王であった時期に外交面を担っていたのは懐機という人物でしたが、この人物は外交面だけではなく内政面にも関与していきます。当時、那覇が離れ島であったのを長虹堤という海上道路を設置して沖縄本島との往来の便を向上させたことはつとに有名です。
 このように尚巴志の下には有能なブレーンが存在しており、そのような人々を活用して国家経営を円滑に進めていたことが分かります。
 また、1429年に山南を攻めた際には尚巴志の実弟である平田大比屋がこの戦で亡くなっています。このことから尚巴志の血縁者が三山統一に向けて最前線で戦っていたことが窺われます(写真4)。
 尚巴志が琉球国中山王として存在しつづけたのは決して彼一人の功績ではなく、多くの人々の功績の上に成り立っていると言えるでしょう。

平田大比屋が猛攻をかけた南山グスク 
写真4.平田大比屋が猛攻をかけた南山グスク
 

5.表には出てこない歴史への興味

 三山とは中国・明朝からお墨付きをもらった3つの国を意味し、尚巴志によって1429年に三山が統一されて以降、琉球列島では琉球国中山が唯一の冊封を受けた国として約450年間、存続していきます。1470年に第一尚氏王統が金丸に滅ぼされて第二尚氏王統に取って代わってからも、その国家経営のために国王の下には多くの有能なブレーンが存在していたことは琉球の歴史を紐解けば分かります。
急激に成り上がっていった尚巴志にとって、有能な人材をより多く確保していくことが国王に即位するための近道であり、そして三山統一を成し遂げるためには極めて重要な条件であったと言えます。そして、尚巴志が国王に即位したことの背景として、有名無名の人々の活躍があったことは疑う余地もありません。それと共に、知られざる事実を知ることこそが歴史を知ることの面白味であると言えます。

主任学芸員 山本正昭

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