この2年、コロナ関連のニュースの影響もあり、テレビで沖縄県庁の表札を見かける機会が増えたように思います。この表札は県道42号線沿いの入口付近に設置されており、表面に大きく「沖縄県庁」、裏面に「沖縄県庁表札の建立にあたり」という一文が記されています。しかしこの表札、いったい誰が揮毫(きごう)したのでしょうか?
1972年5月15日。午前零時をもって沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、「沖縄県」の新たな一日が始まりました。この日は県内でいくつかの式典・集会等が行われており、沖縄県としても「新沖縄県発足式典」などを行っています。
この発足式典の数時間前、沖縄県庁において一つの式典が催されました。それが「沖縄県庁表札除幕式」です。「復帰記念行事計画書」には、「平和で豊かな沖縄県に願いをこめて、その除幕式を挙行する」とあります。この表札は今から50年前、平和で豊かな沖縄になる願いを込め、そして沖縄の新たなシンボルとして作られたのです。しかし、どこを見ても誰が書いたかは明記されていません。実はここに揮毫した書家の思いが詰まっています。
書家の名は謝花寛剛(じゃはなかんごう)。「沖縄の三筆」の一人に数えられ、謝花雲石(じゃはなうんせき)の雅号で知られる人物です。雲石は28歳の時に朝鮮へ渡り、朝鮮近代書界の大家と言われた海岡・金圭鎮氏に師事し、王義之の書法を学びます。沖縄に戻った後は、当時の沖縄県庁の書記として勤める傍ら、書道の普及に努めます。戦前戦後を通してその書は高く評価されており、「歌ん恩納ナベ記念碑」や波上宮にある「山城正忠歌碑」などを揮毫しています。
たくさんの弟子も育てており、その中には琉球政府文書課長を務めていた照屋栄一がいます。復帰の準備が始まると、照屋は渉外広報部長の大島修とともに沖縄書道界の重鎮となった雲石のもとを訪れ、沖縄県庁表札の揮毫を依頼します。
しかし雲石は「旧県庁の表札を書き、それがさる大戦で庁舎とともに焼失し、県民も悲惨な目にあった。その悔しさ、苦しさから二度と書きたくない」との理由で揮毫を断っています。実は雲石は1931年に当時の沖縄県庁の表札も揮毫していたのです。
ですが、「今度こそ恒久平和と県民の幸せを祈念し、未来永劫に新生沖縄県の象徴・顔・心を建てる」という大島・照屋の力説に雲石の心が動きました。こうして揮毫されたのが現在の沖縄県庁表札です。
この揮毫が完成した折、照屋は雲石の雅号を書き記すことを進言しました。しかし雲石は「『沖縄県庁』の表札は、沖縄県民の合作だ」として揮毫することはありませんでした。表札揮毫、そして復帰に対する思いが強く表れています。県庁の表札に雲石の名がないのはそのためなのです。
現在、雲石の揮毫した表札の原本は、沖縄県立博物館・美術館に保管されています。平和で豊かな沖縄を願って揮毫されて50年。この半世紀を振り返り、次の未来をどう進むか考える一年が始まったのだと思います。
沖縄県庁表札(クリックすると拡大します)
謝花雲石 筆「沖縄県庁表札の建立にあたり」(クリックすると拡大します)
学芸員 伊禮拓郎