最終更新日:2021.12.15
2021年11月30日(火)から博物館常設展示室内にある歴史部門展示室で特集展「中城村のグスク~中城グスクと新垣グスク~」を開催しています。
本展は、当館博物館班の考古分野担当・山本主任学芸員を主担当に中城村教育委員会の皆様に多大なご協力を賜り開催しています。展示内容は、中城村で開催された「中城城跡展」及び「新垣グスク展」を柱に、沖縄県立博物館・美術館が所蔵している中城グスク関連資料を加えたものになっています。その中で、歴史分野担当者が担ったテーマは「描かれ、記された中城グスク」でした。
(写真1:「描かれ、記された中城グスク」の展示風景)
当館所蔵の中城グスクに関連する資料を探していくと、様々な資料が浮かび上がってきました。
まずは、15世紀中頃の琉球の様子が描かれた琉球国図です。沖縄島の東側に、中城グスクに比定される「中具足城」が記されています(写真2)。また、当館所蔵の『おもろさうし』(尚家本)では、全22巻のうち第2(1613年編纂)が「中城越来のおもろ」のテーマになっていて、中城に関するオモロが集録されています。この中には、堅牢に武装された中城グスクや中城の繁栄の様子が謡われているものがあります。これらのオモロは何年に作られたのか明確ではありませんが、少なくとも1613年以前であること、中城グスクの大幅な軍備拡張が図られたのが護佐丸(?-1458)の時期であることから、15世紀中頃辺りの様子が謡われた可能性も考えられます。また、「賀通連城」(勝連グスク)や「五欲城」(越来グスク)のように、琉球国図に記された周辺のグスクとともに15世紀中頃の地図に反映されていることから、琉球国内の一大拠点として認識される場所だったことがうかがえます。
17世紀以降の近世琉球の資料では、間切図をピックアップしました。間切図は、沖縄島と周辺離島を分割して描いた地図です。見つかっている7枚の内1枚に、中城間切と隣接する西原間切・宜野湾間切・浦添間切が描かれています(写真3)。中城グスクは「旧城」・「番所」と記され、赤色屋根が2棟連なる建物も描かれています。「旧城」とはこの頃すでに軍事的な役割を失ったグスクのことで、「番所」とは一の郭に設置された中城間切番所(役所)を示しています。間切番所の様子は、1853年に来琉し中城グスクを訪れたペリー提督の探検隊の記録にも掲載されています。探検隊一行は宿道を通り、新垣グスクを過ぎたところの小高い岩をバナーロック(旗岩)と命名しました。中城グスクの正門(北側)から城内に入り、立派な構造の石造建築のさまに驚いています。日本遠征記にはスケッチとアーチ門等の模式図、測量された中城グスクの平面図も掲載されました。
近代資料では熊本県出身の日本画家・宮崎東里(1900-1962)が描いた「中城城址」(沖縄風景絵図集録)、現代資料では1950年に開園した中城城址公園の計画図を展示しています。
その他に、1458年に起こった護佐丸・阿麻和利の乱が記された『蔡温本中山世譜』、1963年に発行された琉球切手の中城城跡関連資料も所蔵していますが、展示スペース等の都合ですべては展示せず、絞り込んだ資料を紹介することにしました。
(写真2-1:琉球国図 赤枠は写真2-2拡大部分)※この琉球国図は北を上に向けています
(写真2-2:琉球国図に記された「中具足城」とその周辺)
(写真3:間切図(中頭南)の中城間切)
何かを「描き」「記す」ということは、何らかの動機や意図、必要性が意識された上で、目に見える形に表わされるものと思います。今回は当館所蔵資料の一部の展示となりましたが、それだけでも、中城グスクが各時代を通じて描かれ、記録され続けていることが改めてわかりました。いつの時代でも「描き」「記す」側が必要性を感じるほどの、中城グスクの大きな存在感を示してくれているように思えました。
中城グスクの存在感は、発掘調査で出土した遺物や遺構からもうかがえます。ぜひ、展覧会の会場でご覧ください。
主任学芸員 崎原恭子