1. 続・明和津波の襲来から250年 ―分かっていないことが多い明和津波の事実―

続・明和津波の襲来から250年 ―分かっていないことが多い明和津波の事実―

最終更新日:2021.06.25


『大津波の痕跡を探る』解説動画・前編

 
『大津波の痕跡を探る』解説動画・後編

 前回は明和津波をテーマにしたミニ展示について開催の顛末や展示の主旨について触れてきましたが、今回は展示の内容に少し踏み込んでみたいと思います。
 明和津波は宮古諸島と八重山諸島の沿岸部一帯を襲った津波であり、「明和の大津波」「乾隆三六年の大波」「八重山地震津波」とも呼ばれています。この津波は1771年4月24日(旧暦では3月10日)の午前8時頃に発生した、石垣島の南南東沖約40km地点を震源域とするマグニチュード7.4の地震により引き起こされました。八重山諸島では9千人以上、宮古諸島では2千人以上の犠牲者を出した未曽有の自然災害で、被害の状況については文献資料において詳しく知ることができます。そして、この惨状を後世に伝えていくために石垣島と宮古島には津波犠牲者への慰霊碑、祈念碑がそれぞれ建立されています(写真1,2)。実のところ明和津波については未だに解明されていない部分が多くあります。以下、それらを簡単に紹介していきたいと思います。

 
 

写真1 明和津波慰霊碑(石垣島)


写真2 乾隆36年大波碑(宮古島)

まずは先に触れた震源域が石垣島の南南東沖とされている一方で、多良間島と石垣島の間にある断層のズレにより引き起こされた地震であるという学説も出されています。このことから震源域については未だ議論の余地を残していると言えます。次にこの津波の要因となった地震の震度は4と一般的に言われていますが、嘉良嶽東方古墓群発掘調査ではその近くから地割れ痕が検出されていることにより、震度5以上であった可能性も指摘されます。他には石垣島の各地で見られる津波石の多くが明和津波によって打ち上げられたとされていますが、近年の調査では明和津波以前に大規模な津波が何度か発生しており、その際に打ち上げられた津波石も多く見られるといった分析結果が出ています(写真3、4)。
 


写真3 石垣島の津波石(津口北のたかこるせ石)


写真4 石垣島の津波石(白保南海岸の津波石群)

更に注目されるのはこの津波における遡上高についても疑問点があります。首里王府へ提出された津波被害報告書である「大波之時各村之形行書」では石垣島の宮良村にて「二八丈二尺(85.4m)」まで波が達したと記されていますが、当時における測量方法の精度により、数値の信憑性は疑わしいとされています。伝承では宮良湾から名蔵湾へと波が抜けたとされていますが、そのような記録が他に見られないことから、津波の遡上高についてもよく分かっていないのが実際のところです。近年では宮古島の友利元島遺跡の発掘調査において、標高12mまで海岸堆積物が上がっていることが確認されたことから、宮古島南部では津波の遡上高は15m前後であったことが推察されます(写真5)。
 

写真5 現在の友利元島遺跡にみる明和津波遡上高附近

 以上のことから明和津波を発生させた地震の震源域や震度、更には津波の威力についても不明確な部分が多いと言えます。今回のミニ展示では明和津波の分かっていない部分についてもスポットを当てたかったのですが、展示スペースの問題や章立ての関係で詳しく紹介することができませんでした。また、6月5日に予定していた本展の展示解説会で明和津波の研究がどこまで進んでいるのかについての話をする予定でしたが、緊急事態宣言によって中止となってしまったことから、今回の学芸員コラムで少し補足をさせていただきました。
現在、「大津波の痕跡を探る―発掘調査で確認された、いわゆる明和津波の痕跡―」展示解説動画を製作し(写真6)、youtube上で公開しております。前・後編各10分程度の展示解説動画を本頁の冒頭にアップしておりますので、興味ある方々は是非ご覧いただければと思います。


写真6 解説動画撮影風景


 
当館主任学芸員 山本正昭

当館主任学芸員 山本正昭

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