1. 謎多き漆器「御供飯」③ ~館蔵御供飯収蔵の経緯~

謎多き漆器「御供飯」③ ~館蔵御供飯収蔵の経緯~

最終更新日:2020.08.24

 当館が所蔵する朱漆巴紋沈金大御供飯(図1)は16~17世紀頃の作と推定されています。作られてから数百年の時間が経っているので、どうしても経年劣化が進み、現在では展示ができない状態になっています。そこで、住友財団の文化財修理の助成を受けつつ、今年度より修理に入りました。2年がかりの修理になる予定で、本土復帰50周年の年には修理が終わり、久しぶりに展示が行える状態になるかと思います。
 そんな御供飯、当館での初展示はいつだったのでしょうか?そもそもどういった経緯で当館に収蔵されることになったのでしょうか?
 時を遡る事66年前、1954年4月7日、伊東忠太博士がお亡くなりになりました。伊東博士は、首里城の保存など戦前の琉球・沖縄の文化財保護に努めた人物です。当館が後に収蔵することになる御供飯は、この伊東博士が所蔵していました。
 1950年代というのは当館の黎明期で、伊東博士が亡くなった翌年の1955年には東恩納博物館と沖縄民政府立首里博物館が合併して琉球政府立博物館(当館の前身)が開館します。同年8月には山里永吉氏が館長に就任し、10月には県外にある文化財購入のため京都・奈良・東京へと赴いています。この時期の文化財購入については沖縄タイムス・琉球新報等の記事に見られますが、その中には伊東博士の遺品購入に関する話も掲載されています。
 1955年10月25日の沖縄タイムスの記事では、10月18日に東京で文化財保護委員会(文化庁の前身)の関野克氏・森政三氏、重要文化財修理実施委員の五十嵐牧太氏らと会見し、園比屋武御嶽の復元、東京にある文化財の購入について話し合いを行ったことを報じています。さらに記事の中では「東京の文化財購入は五十嵐氏の斡旋で、故伊東忠太氏の遺品の紅型、漆器を買い受ける話がまとまった」としています。
 同日の夕刊ではそのことについてより細かく報じていて、10月20日に山里館長・森氏・五十嵐氏で亡くなられた伊東博士の家を訪ね、伊東裁子氏(伊東博士の長男・祐基氏の夫人)の対応のもと、伊東博士の遺品を買い受ける下見をおこなったことを紹介。御供飯の写真が大きく掲載されており、購入する文化財のリストには「朱御供飯」と記載されています。
 この記事で裁子氏は、「いろいろな方々から話もあるのですが、沖縄は父が大変好きなところでしたし、何よりもローマのものはローマへ、沖縄へ帰るのが一番いいと思いますからお引渡しすることにしました。父も喜んでくれると思います。」と語っています。
 この購入に関することが翌日26日の琉球新報の記事にも掲載されており、それによると、10月25日に山里館長から文化財保護委員会あてに伊東博士の遺品を20万円分購入したと知らせがあったと報じています。
 これらの伊東博士の遺品は後に沖縄へ送られ、琉球政府立博物館で初お披露目されています。このことについては、11月23日に琉球新報・沖縄タイムスがそれぞれ報じています。琉球新報の記事では、本土へ渡った山里館長の収集品の第一便として伊東博士の遺品が到着・展示されていることを紹介、御供飯と絣・紅型の展示写真を掲載しています。また、沖縄タイムスの記事では、購入した文化財が11月22日に到着し直ちに展示したことを報じています。わずか1日での展示ということになるので、同じ学芸員としては大変驚きを覚えます。沖縄タイムスの記事でも展示風景の写真を掲載していますが、その真ん中あたりには御供飯とそれを観覧する人が写っています。
 館名こそ変わっておりますが、この展示こそ当館における御供飯の初展示で、その様子が琉球新報・沖縄タイムスの両紙に残っているのです。当時から特に貴重な作品の一つとして認識されていたのでしょう。
 この御供飯は当館が収蔵する漆器の中でも時代が古い部類に入り、琉球の美術工芸史を考える上で非常に重要な作品となっています。平成2年には県指定有形文化財に指定され、琉球の美術工芸の優品としてますますその重要性が認識されたように思います。2年後の2022年には修理が完了し、再び多くの方にご覧いただけるようになると思います。皆さま、どうぞ楽しみにお待ちください。


図1 朱漆巴紋沈金大御供飯(沖縄県立博物館・美術館所蔵)

 

学芸員 伊禮拓郎

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