1. 人類社会とグローバル化

人類社会とグローバル化

最終更新日:2020.04.23

写真1 新都心公園の看板(マスクをしよう!)

写真1 新都心公園の看板(マスクをしよう!)

  図1 琉球の交易ルート(14世紀から16世紀中頃)

図1 琉球の交易ルート(14世紀から16世紀中頃)

写真2 勝連城跡出土の貿易陶磁

写真2 勝連城跡出土の貿易陶磁

写真3 古我地原貝塚(こがちばるかいづか)(うるま市)の復元模型

写真3 古我地原貝塚(こがちばるかいづか)(うるま市)の復元模型

写真4 熱田原貝塚の土器薄片写真

写真4 熱田原貝塚の土器薄片の偏光顕微鏡写真(写真横幅約2mm)
写真中にいくか見える暗灰色の部分がチャートの礫

写真5 沖縄島北部の本部半島で見られるチャート円礫

写真5 沖縄島北部の本部半島で見られるチャート円礫

現在、世界では新型コロナウィルスが猛威をふるっています。このウィルスは、2019年11月に中国の武漢で発生が確認され、翌2020年1月下旬には中国国内に広がり、その後東アジア、ヨーロッパ、アメリカなどで感染者数が拡大しています。4月23日現在、世界の感染者数は260万人を超え、死者は18万人を超えたとされています。これは、人類の感染症の歴史の中でも、スピードと規模において空前のものと言えるでしょう。

なぜこれほど急速に感染拡大したのでしょうか。それは現代社会のグローバル化(globalization)と関連しています。現代の我々は、ジャンボジェットを利用して北京や上海まで、数時間で旅することができます。わずか200~300年前の琉球使節が、首里から北京まで、船や陸路で数か月もかけて旅していたことを考えると、まさに隔世の感と言えるでしょう。

人の移動だけでなく、物流や情報ネットワークも大きく変化しました。現代では、ネット通販のサイトを利用すると、世界各地の商品を数日~数週間で手に入れることもできます。また、インターネットでは世界各地のニュースを同時中継で視聴することも可能です。我が家でも秋田県産の米を食べ、ノルウェー産のサーモンが食卓にのぼります。沖縄県の食料自給率は40%を割り込んでいます(平成28年度カロリーベース)。本棚には県産本が並んでいますが、その紙は県外で生産されたものですし、紙の原料となるパルプは約70%を国外からの輸入に頼っています。

物流の発達した現代では、安くて質の良いものが好まれます。その結果、生活必需品でさえ、外からの輸入に頼るようになりました。これは裏を返せば、生活必需品を外からの輸入に頼っても大きな問題がないほど物流や社会のシステムが強固で安定的だということを意味しています。対外的な緊張関係や戦争がおこれば、あっという間に輸入は停止し、社会は存亡の危機に陥るでしょう。県内の離島でも、台風や高波で物資を運ぶ船が何日も着かないということは珍しくないのですが、それでも自給自足というわけにはいきません。

94歳で亡くなる直前まで中央アジアの遺跡発掘に邁進された人類学者の加藤九祚(かとうきゅうぞう)先生は、ユーラシアの東西を結ぶシルクロードの研究で顕著な業績を残されました。加藤先生は、シルクロードを「お互いに足りないものを補いあう道」だったと述べています。シルクロードを運ばれた絹や陶磁器、黄金は、生活に絶対必要なものではありませんが、人々の生活に豊かさをもたらす奢侈品(ぜいたく品)だったと言えるでしょう。

海洋国家として繁栄した琉球王国も、中国、日本、東南アジアを結ぶ海上貿易で多くの富を蓄えました。そうした富が、一般庶民のくらしを潤すことはほとんどなかったと思いますが、歴史に記憶される繁栄をかちえたのです。シルクロードや琉球王国の海上貿易は、現代の物流ネットワークとは異なり、生活必需品の自給という経済基盤の上に立った、プラス・アルファ(+α)の経済活動でした。

それでは、さらにさかのぼって、古代の沖縄の人々のくらしはどうだったでしょうか。沖縄では11世紀頃にコメやアワなどの農業が始まり、グスク時代に入りますが、それ以前は猟漁採集のくらしが、長きにわたって続いたと考えられています。自分の手足を使って手に入れたものを食べ、自分で道具を作り、使っていた時代です。猟漁採集は、自然の動植物に依存したくらしですから、農業に比べると生産性が予測しづらく、飢餓に陥る危険も大きかったのではないかと思われますが、実際には約9000年もの間、こうしたくらしが沖縄では続いていました。

日々、時間に追われながら文明社会を生きる我々現代人に比べると、猟漁採集のくらしは非文明的で危険と隣り合わせの局面もありましたが、その大半はのんびりしたものでした。毎日の通勤や買い物で、何十人もの知らない人と無表情ですれ違う現代とは異なり、日々、見知った人と顔を合わせ、笑顔であいさつを交わす時代でした。義務教育もありませんから、生きるために必要なスキルを身につけ、日々食べるものが得られれば、それで十分だったわけです。

自然とともに生きる古代のくらしは、完全な自給自足だったと考えられがちですが、実はそうではありませんでした。沖縄島南部の南城市知念に熱田原貝塚(あったばるかいづか)という3500年ほど前の遺跡があります。遺跡からは当時の人々が食べた貝殻や魚の骨がたくさんみつかっています。いずれも遺跡近辺でとれるものばかりですが、この遺跡から発見された土器には、チャートと呼ばれる堅い石ころがたくさん含まれていました。チャートは沖縄島北部の本部半島などから産出する岩石で、沖縄島中南部には分布していません。

このことから、熱田原貝塚の土器は、沖縄島北部から運ばれたものだと考えられます。沖縄でなじみ深い壺屋焼や赤瓦には、南部でとれる原料が利用されていますから、焼き物に適した原料が分布していなかったわけではありません。恐らく南部の人々は、「北部で作っているんだから、わざわざ自分たちが作らなくても、彼らから入手すればそれで十分」だと考えていたのでしょう。

また、この遺跡から見つかっている石器も、すべて北部で産出する砂岩や千枚岩を利用したものでした。南部の人々は、土器や石器のような日用品を、北部からの供給に頼っていたのです。古代の社会に見られるこのような需要と供給の関係を、現代の私たちから見ると、供給側が経済的に優位な立場にあったのではないかと考えたくなりますが、実際にはそんなことはありません。奢侈品や貴重品が、沖縄島北部の遺跡から多く発見されるというような事例は確認されていないのです。そもそも猟漁採集社会では、現代人のような「儲けよう」とか「富をたくわえよう」という発想自体が無意味なことだったでしょう。たくさんのものを持っていても、生活の役に立たなければ何の意味もないのです。

シルクロードや琉球王国の海上貿易に代表される+αの経済活動、そして生活必需品を他者に依存する古代の社会システムに見るように、物流ネットワークは、はるか昔から人類の生活を維持し、豊かにするための重要な社会的活動でした。翻って、現代文明を侵攻しつつあるウィルスを食い止めるため、人の移動や物流ネットワークをシャットダウンしたらどうか、という提案もありますが、桃源郷(ユートピア)のような「孤立した社会」は、短期的には可能であっても、長期的に完全な自給自足を実現することは現実的ではないでしょう。歴史的に見れば人と人とのつながり、社会と社会の連帯が、人類の歴史を大きく発展させてきたことは明らかです。

日本では、新型コロナウィルスに対抗するためのさまざまな対策が示されています。一人一人が意識をもってこの難局に立ち向かうことが、今求められています。

 

主任学芸員 山崎真治


  •  

 

主任学芸員 山崎真治

シェアしてみゅー

TOP