いよいよ11月22日、特別展「縄文と沖縄」がオープンします。その前に、ジョーモンって何?という人のために、縄文のことをすこしご紹介しましょう。
ジョーモンとは、その名のとおり縄目の文様、縄文のことです。日本で初めて、近代的な科学的手法にもとづく貝塚の発掘調査と記載を行ったエドワード・S・モースは、1879年に大森貝塚(東京都品川区)から出土した土器を記載する中で、土器の表面にcord mark が多く見られることに注目しています。このcord mark の訳語として考案されたのが縄文で、縄文時代や縄文土器という名前の由来となりました。
縄文時代は1万5千年前頃から2千8百年前頃まで、非常に長期にわたって続いた定住的な狩猟採集民の時代ということができます。これに対して、縄文時代に先行する旧石器時代は頻繁に移動を繰り返す狩猟民の時代、後続する弥生時代は農耕民の時代でした。
縄文時代と同じ頃、世界にはさまざまな文化や文明が誕生しました。特に高度な文明を生み出したエジプトやメソポタミア、中国、アンデスなどでは、巨大なモニュメントが建造されたことでよく知られています。
著名なエジプトの大ピラミッドは、平均2・5トンの石灰岩が300万個も積み上げられたもので、「火焔型土器」や「縄文の女神」が作られた縄文時代中期に相当する約4千5百年前に、一人の王のために建造されたものです。一方、メソポタミアでは8千年前頃に始まるウバイド文化の時期に、神殿が建造されるようになります。こうした神殿は、都市の発達と密接に結びついたもので、シュメールのウルやウルクといった都市国家では、都市神を祀る神殿が建造され、神官によってさまざまな儀式が取り仕切られていました。
近年ではウバイド文化に先行する時期にも、大規模な公共建造物が西アジア各地で建造されたことが明らかになっています。中でもアナトリア南東部のギョベックリ・テペ(トルコ)は約1万~8千年前にかけて営まれた遺跡で、直径10mほどの円形建物が多数確認されており、その中には高さ5・5m、重さ15トンに達するT字形石柱が立てられていました。しかもこの大規模なモニュメントが、農耕以前の狩猟採集民によって建造されたというから驚きです。年代の古さと規模において群を抜くモニュメントです。
マチュピチュに代表される高度な石造建造物が発達したことで知られるアンデスでは、5千年前頃から神殿が建造されるようになります。アメリカ大陸最古の都市遺跡とも言われるカラル遺跡では、66㏊の範囲に30以上の神殿が立ち並んでいました。この地域では土器の出現は約3千800年前以降と遅く、いわゆる先土器時代から大規模な神殿が建造されていたことになります。
中国では、良渚(りょうちょ)文化(約5千年前)の莫角山(ばっかくさん)遺跡がよく知られています。この遺跡は東西670m、南北450mにわたって広がる高さ約9mの人工の土台からなり、その総面積は30㏊を超えます。これは日本の大型古墳に匹敵する規模で、この上に、大莫角山、小莫角山、烏亀山と呼ばれる三つのマウンドが乗っています。最も大きい大莫角山は基部で東西175m、南北88m、高さは6mほどあります。これらのマウンド上には大規模な建物跡があり、政治的、経済的に重要な施設だったと考えられています。さらに、莫角山遺跡の周囲には囲壁と環濠が巡らされており、その規模は東西1500~1700m、南北1800~1900mに達します。
ここに取り上げた世界の名だたる文明とは異なり、縄文時代には大規模なモニュメントは発達しませんでした。比較的大規模なものとして、大湯環状列石(直径約46m)や、寺野東遺跡で検出された環状盛土遺構(直径約165m)などがありますが、前者は累代的な墓地、後者は住居址や埋設土器、炉址などが積み重なったマウンドであり、一定のプランに基づいて構築された施設というわけではありませんでした。
縄文時代のような狩猟採集社会と農耕社会とでは、基礎的な生産力や人口規模に大きな差異があったのかも知れません。しかし、ギョベックリ・テペやカラル遺跡のように、文明化の初期段階でも大規模な建造物が構築されていた実例もあります。生産力の増大や経済的余裕が必要条件だったとは言い切れません。
縄文時代には、エジプトの王やメソポタミアの神官のような権力者が存在しなかったことも一因かも知れません。しかし、アンデスでは特定の権力者が登場する以前から、共同祭祀を行う素朴な空間として建物の建造が始まり、そこで繰り広げられた儀礼的反復行為(神殿更新)が建物を巨大化させ、大規模な神殿を生み出していったといわれています。
答えは簡単には見つかりそうにもありませんが、縄文人も大規模なモニュメントを建造しようと思えば可能だったことでしょう。それだけの技術力や経済力は彼らの中にも十分に培われていたと考えられます。縄文時代後期以降に登場する環状列石や環状盛土遺構の存在は、そのことを端的に示しています。
一方、縄文人にとって自分たちと祖先、あるいは神や自然との関係性は、そびえ立つ神殿や巨石建造物のような大規模モニュメントによってあらわされるのではなく、むしろ土器や土偶、石棒などのポータブルアートによってあらわされていました。こうした一種の「省エネ指向」あるいは「コンパクト指向」は、縄文文化の大きな特徴であったと言えるでしょう。
自然を人工的に改変して新たな景観を作り出すのではなく、自然と共存する定常的な営みが、縄文人の世界観の根幹を規定していました。近現代日本における急激な開発発展と経済成長の歩みとは、大きく異なる思想がそこにはあったのです。
※クリックすると拡大します。
主任学芸員 山崎真治