1. 田中俊雄との出会い・そしてこれから

田中俊雄との出会い・そしてこれから

最終更新日:2016.07.27

「沖縄織物の研究」(昭和51(1976)年 紫紅社)という研究書があります。それは、昭和14・15年と民芸の沖縄調査に同行した田中俊雄(たなか・としお/1914~1953)氏と妻の玲子氏が、沖縄の染織を研究分析しまとめたものです。
 私がこの本と出合ったのは、今から30年以上前のこと。この本は、その頃の私には、言葉の表現が難しく、内容を理解するのにとても時間がかかったことを覚えています。

  • 田中俊雄(1914~1953)

    田中俊雄(1914~1953)

  • 「沖縄織物の研究」(昭和51(1976)年 紫紅社)

    「沖縄織物の研究」(昭和51(1976)年 紫紅社)

この本は、二章に分かれ、第一章は沖縄織物裂地の考察、第二章は沖縄織物文化の研究となっています。特に、第二章には、沖縄の織物の素材・染材・機具・組織などがまとめられています。
実は田中以前にはこのように分析に基づきまとめられた本や発表はなされていませんでした。また、引用文献や聞き取りの詳細などが脚注に述べられており、駆け出しの学芸員であった私にとって、この本は、まさにバイブルでした。戦後の研究は沢山ありますが、戦前の史料を当時の図書館で確認していた彼の研究を超えることは難しく、私にとってのバイブルという点、それは今も変わりないとことです。
田中は、戦後全てを失った沖縄に再び織物が花開くことを常に心に留めながら研究を続けていましたが、それを見ることなく38歳の若さで他界します。この本は遺稿として出版されました。

二度目の出会い
田中の残した遺稿が、山形県米沢市の田中の実家に残っているという話を聞いて、訪ねて行ったのが、二度目の出会い言ったらよいでしょうか。10月の末、初雪が降るかもしれないという寒い日でした。
田中の実家では、弟さん夫婦が暖かいうどんで迎えてくれました。二階に上がると、遺稿、調査メモ、写真(紙焼)、書籍などが整然と展示されていましたが、あまりの多さに、何から手を着けたらいいのか混乱していました。たまたま手にとって読んだ原稿は戦時中に書いたもののようで、沖縄が戦災にあい、かつて目にしたものが失われてしまったこと、だからこそ、沖縄織物について出版するのだという熱い想いが記されていました、
田中が残したこれらの資料は、その後、田中家から当館の前身である沖縄県立博物館へ寄贈になりました。

田中の残したもの
沖縄の私達の博物館には、田中から直接寄贈された裂地帖1冊とその後遺族から寄贈された田中の遺稿など(2,320件)があります。その内訳は、原稿が1,032件、抜書(写本など)511件がそれに次ぎ、写真(紙焼)、図や表、雑誌や新聞切抜、書籍、調査メモが含まれています。

田中の残したこれらの資料を整理していくと、彼がやりたかったことが見えてきました。
染織は生活と切り離せないものです。昭和の初め、伝統的な手織の染織は、機械化のなかで岐路に立っていました。しかし、田中は、民藝に参加し手織の織物に触れるごとに、経糸と緯糸が交差し生まれる織物本来の魅力は、手仕事に残っていることを確信し、その実践をどのように示すかという事を考えていたのではないかと思われてきました。
田中が歿して60年以上が過ぎ、戦後の荒廃から、沖縄も沖縄の織物も復興しました。その今だからこそ、私達は、田中のやってきた事(意志)を伝えないといけないと感じています。そして「生活文化としての織物」という問いかけを続けていくことも役目の一つだと、資料の整理をしながら、思っているこの頃です。
 

  • 田中俊雄資料 絣調査のカード

    田中俊雄資料 絣調査のカード

  • 田中俊雄資料 原稿

    田中俊雄資料 原稿

主任学芸員 與那嶺一子

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