八丈島紀行

最終更新日:2013.01.25

図1八丈島の模型 (手前が八丈富士で奥が三原山)

図1八丈島の模型
(手前が八丈富士で奥が三原山)

図2八丈島の海岸と八丈小島(左)

図2八丈島の海岸と八丈小島(左)

皆さんは八丈島という島をご存知でしょうか。八丈島は東京都の南方約300kmの海上に浮かぶ火山島で、伊豆諸島を構成する島々のひとつです。面積は約70平方キロメートルで久米島よりひと回り大きいくらいですが、標高701mの三原山と標高854mの八丈富士という二つの火山があります。

実はこの八丈島は、黒潮を介して沖縄とゆかりの深い島でもあります。フィリピン近海から与那国島、東シナ海をへて日本本土南岸を洗う黒潮は、八丈島とその北約75kmに浮かぶ御蔵島との間を東に向かって流れています。この黒潮を越えて八丈島に到達することは、古代の人々にとっては大変な航海だったはずです。歴史時代には八丈島は「流人(るにん)」の島としても知られ、豊臣五大老の一人、宇喜田秀家や「八丈実記」を著わした近藤富蔵など多くの人々が、この島に流されました。

しかし、八丈島では約6500年前の縄文時代早期には、すでに縄文人がこの島に到達していた証拠が発見されています。また、約5000年前の縄文時代前期の倉輪遺跡からは、本土の縄文遺跡で発見される土器とまったく同じものが多数発見されています。さらに、埋葬された人骨とともにイノシシ、イヌの遺体や、伊豆諸島北部の神津島産の黒曜石も見つかっており、縄文人が海を越えてさまざまな物資を運搬していたことがわかっています。イヌは家畜として連れてこられたものと考えられていますが、イノシシは家畜として持ち込まれたものか、それとも狩猟対象として持ち込まれたものか、現在でも議論が続いています。しかし、倉輪遺跡から発見されている石鏃やイヌは、当時イノシシ猟が行われていたことを示唆する材料と言えます。

八丈島は火山島であるため、沖縄の島々のようなリーフ(サンゴ礁)は見られず、沿岸部は険しい急崖となっている場所がほとんどです。「玉石浜(たまいしばま)」と呼ばれる火山岩の大型円礫が累々と積み重なっている様子は、沖縄の海岸では全く見られない特徴的な風景です。こうした場所では貝類の採集も楽ではありません。陸獣に乏しく、海産資源も容易には得がたいこうした火山島で、先史時代の人々はどのように暮らしていたのか、興味は尽きません

  • 図3倉輪遺跡出土の人骨(模型)

    図3倉輪遺跡出土の人骨(模型)

  • 図4玉石浜(八重根)

    図4玉石浜(八重根)

  • 図5黒潮接岸時に見られた潮目 (波立っている部分))

    図5黒潮接岸時に見られた潮目
    (波立っている部分))


 

主任 山崎真治

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