1. ヤンキースが沖縄に来た!

ヤンキースが沖縄に来た!

最終更新日:2009.12.03

パンフレットの表紙

パンフレットの表紙

選手紹介のページ 左から2人目はミッキー・マントル 下半分は企業広告

選手紹介のページ
左から2人目はミッキー・マントル
下半分は企業広告

パンフレットが展示されている場所

パンフレットが展示されている場所

11月4日(日本時間5日)、ニューヨーク・ヤンキースが、松井秀喜選手の活躍で9年ぶり27度目の優勝を飾りましたね。松井ファンとしてはたまらない試合でしたが、実は、今から54年前の1955(昭和30)年にそのヤンキースが沖縄に来たことを知っていますか?
 
当時、ヤンキースは沖縄駐留米軍の慰問と親善を目的として11月16日に来沖し、17日に試合を行っているのです。
当館では当時の貴重なパンフレットを常設展示しています。パンフレットは沖縄島の地図をバックにボールをキャッチする選手の上半身がデザインされた赤い冊子で、中身は20ページにわたります。主催者であるペプシ・コーラ社長の写真入りあいさつに始まり、ヤンキース関係者、米軍関係者、 琉球政府初代行政主席の比嘉秀平氏のコメントが続き、選手 一人びとりの紹介が掲載されています。メンバーにはヨギ・ベラやミッキー・マントルといった名プレーヤーが含まれていました。(ミッキー・マントルは婦人の出産のため大阪での試合後、帰国し来沖せず)
 
この年、ヤンキースはワールドシリーズでブルックリン・ドジャースに敗退。その後、日本プロ野球との親善野球16試合を終え来沖し、キャンプ桑江球場において沖縄オールスターズ(選手は沖縄駐留軍人)と試合を行いました。沖縄の地元新聞ではヤンキースの日本での試合ぶりに加え、連日選手を取り上げ紹介しました。また、琉米親善委員会主催の論文コンテスト(テーマ:私は何故ニューヨーク・ヤンキースの試合を見たいか)が行われ、入選者には入場券が贈呈されたことを伝えています。当日は、試合前からの雨でグランド状態が悪く、ガソリンをまいて乾かすなどの悪条件の下、約1万人の観衆を集め試合が行われました。結果は6本のホームランを放ったヤンキースが9対1の7回コールドで圧勝しました。
 
当時の沖縄はアメリカ統治下にあり、米兵による様々な事件・事故が多発していました。この年の9月3日には由美子ちゃん事件、9月10日には第2の由美子ちゃん事件が起こるなど住民の人権は抑圧されていました。2年前の1953年には米国民政府によって『土地収用令』が公布され、いわゆる「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収が行われています。
 
このような時代の中、米国政府は自らの政策を住民に理解してもらい、琉米の友好関係をつくりだす目的で様々な緩和策を実施しました。ヤンキースの試合もその一環としての側面があったのではないでしょうか。

主任学芸員 岸本 弘人

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