武芸洞の発掘1

最終更新日:2008.11.15

武芸洞(西側より)

武芸洞(西側より)

崩落岩の下から人骨が出土した

崩落岩の下から人骨が出土した

沖縄県立博物館・美術館では、化石の保存に適した石灰岩が広く分布し、港川人を はじめとする人類化石がいくつも発見されている沖縄県の地質的特性を踏まえ、新 たな人類化石の発見をめざした調査研究を行っています。その一環として、平成19、 20年度に南城市玉城字前川にある武芸洞(「ガンガラーの谷」内)の発掘調査を行いました。

武芸洞は、雄樋川の谷に面したドリーネ内に開口しており、東西に2つの開口部があります。武芸洞という名前は、昔、近隣の人々がこの洞窟で武芸や踊りの稽古をしていたことに由来するそうで、その名のとおり武芸の稽古ができるくらい大きな洞窟です。洞窟内部は風通しがよく、乾燥していることから、先史時代の居住地として適した場所のように思われました。

平成19年度の調査は、日程の都合から、ごく狭い面積に限って調査を行いました。この調査では、掘った面積が狭かったこともあり、土器のかけらや石器がわずかに見つかっただけで、遺跡の状況を把握するには至りませんでした。しかし、イノシシの骨が多量に発見されたこと、土器のかけらの中に、爪形文土器(約6000年前)らしい小破片が含まれていること、一見して近代の風葬人骨よりも古そうな人骨片が発見されたことが注意されました。

発掘調査では、いつも珍しいものや重要な発見にいきあたるわけではありません。むしろ地味で単調な作業が延々と続くことの方が多いのです。日々変化する現場の状況を予測し、考えながら発掘するのはとても根気のいる作業です。しかし、予想したものを予想した通りに掘りあてるのは楽しいものです(そうそううまくはいきませんが)。

平成20年度の調査では、昨年度の成果を踏まえて、いろいろと予測を立ててみました。昨年の調査地付近に、爪形文土器を含む地層があるのではないだろうか、洞窟内のどこかに先史時代の墓地があるのではないだろうか。そして11月、狙いを定めて発掘が始まりました。

まず掘り始めたのは、東側の開口部に設定した3m×4mの区画です。いざ掘り始めてみると、累々と積み重なる崩落岩の層にあたり、発掘はなかなか進みません。崩落岩の層は、厚いところでは1mもありました。ツルハシや根切り棒で岩を起こしながら掘り進みます。岩を取り除いていくと、意外なことにその下からは、人骨が集中的に含まれる地層が発見されました。あまりに浅い部分から見つかるので、当初、風葬の人骨ではないかと考えましたが、まわりからは厨子甕や副葬品等は見つかりません。そのかわりに、ごくわずかですが土器のかけらがみつかりました。この人骨は、どうやら風葬よりももっと古い時代のもののようです。

人骨の出る層を掘り上げて、さらに下の地層を掘っていくと、焼けた土や灰が多く含まれる地層にあたりました。同じ地層からは、割れた貝殻もたくさん発見されました。恐らく昔の人が食べた残り滓なのでしょう。一緒に見つかる土器は、縄文時代中期(約4000年前)のもので、面縄前庭式(おもなわぜんていしき)土器と呼ばれる土器です。拳大の石を並べて作った炉跡も見つかりました。

さらに縄文時代中期の層の下を掘りすすむと、ようやく目指す爪形文土器(約6000年前)の地層が現れました。爪形文土器は、沖縄でも最古級の土器で、県内でも爪形文土器が発見されている遺跡は10か所ほどしかありません。特に、沖縄島南部での発見は今回が初めてで、貴重な発見となりました。爪形文土器を含む地層からは、たくさんのイノシシの骨が見つかりました。土器片もたくさん見つかりましたが、爪形文土器は薄くてもろいため、触っただけで粉々に砕けてしまうような状態です。このほか、石斧や砥石の破片も発見されています。今回の調査によって、武芸洞が6000年も前から、人々の生活の場所として使われていたことが明らかになったのです。(武芸洞の発掘2に続く)

  • 調査のようす

    調査のようす

  • 石を敷き詰めた炉あと

    石を敷き詰めた炉あと

  • 石斧の出土状況

    石斧の出土状況

専門員  山崎 真治

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