1. 館長あいさつ

館長あいさつ

ごあいさつ

 今年の寒い冬も過ぎ去り、大地の命が芽吹く「うりずん」の季節がやってきました。私の畑では月見草がひっそりと、与儀公園ではデイゴが咲いているのを見ました。当館では、3月7日から始まった「Hello Kitty」展、3月25日からの「大嶺薫コレクション展~大嶺薫と東恩納博物館~」、4月8日からの「御後絵と琉球絵師の系譜展」、と、県内、国内、海外の多くの方々がいらして、楽しい世界が展開しています。

 
 さて、私は沖縄県の博物館中核館である当館の館長の役割として三つの博物館の開設・リニューアルの委員として参加しています。
 一つ目は沖縄県平和祈念資料館及び八重山平和祈念館です。昨年1年をかけて多様な方々からご意見を聞き取り「展示更新基本構想」(沖縄県HP公表)を練り上げました。
 二つ目は八重瀬町の「近代資料館」です。旧東風平町以来長年を掛けて収集してきた謝花昇資料を基点に、沖縄唯一の近代資料館をつくるという構想です。八重瀬町には、清国派の代表格であった東風平間切按司地頭家の義村朝義の書および絵画があります。謝花昇は義村御殿に奉公していたのですが、朝義は謝花昇より一つ下で日常的接した可能性が大です。
 三つ目は石垣市立八重山博物館の新館構想です。八重山博物館は1972年に開館しました。老朽化が進む中、基本構想が2回、基本計画が1回策定されましたが、いずれも中断されました。この2025年3月に、今度こそ新館をつくるのだという思いを込めて基本計画を八重山の人々の意見を傾聴し、多様な知見を持つ委員とともに策定しました(石垣市HP公表)。
 基本計画の最後に今後の事業の展開として、「庁内ワーキンググループの設置及び市民参加の機会を検討する。」という点が明記されました。地域の博物館は、文化行政に携わる人々が地域の人々とともに内容をつくり出して、開館の準備に備えることが大切だと、私は当館の友の会・展示交流員やボランティアの方々の熱い思いから、いつも感じてきたことです。そして、委員として、携わってきた三つの博物館・資料館に対する私の思いでもあります。
 さて、私の博物館体験は八重山博物館から始まります。琉球大学史学科の学生であった私が古文書の現物と初めて出会ったのが八重山博物館です。八重山博物館で出会った古文書の一つが西表島上原村の人頭税台帳である一連の『請取諸帳』です。私は1987年西表島船浦中学校の教員として赴任しますが、校区内にこの上原村が含まれていました。一端廃村になった村なので古文書と繋がらないと言われました。しかし、鳩間嶋に移民していたお家が上原村に戻ってきて、古文書にある家の名前が現在屋号として使われ、その家の船の名前であることを発見した時の感激は今も忘れることができません。
 1989年、琉球大学教育学部に採用されますが、西表島との関係は続きます。院生・学生や附属中の教師とともに西表島を含む竹富町の島々で調査を行い、竹富町の小学校社会科副読本『結びあうしまじま』改訂版を作成しました。これをきっかけに、竹富町教育委員会と教育学部が連携協定を結びます。その後も竹富町史西表島編の編集・執筆、西表島髭川サーラの滝上にある波上炭鉱の発見等、多くの学びの喜びを、八重山からいただききました。
 2010年、当館は特別展「海のクロスロード-八重山」が開催され、私は「八重山を行きかう人々」という論考を図録に書き、2011年10月、八重山博物館に鎌倉芳太郎が寄贈した蔵元絵師画稿(宮良安宣旧藏)に描かれた「夷人の図」(鎌倉命名か?)について、石垣市立図書館で講演しました(講演内容は2012年3月『竹富町史だより33号』に「異人は「マ ニ ラ 」の人々か?-八重山蔵元絵師画稿と波照間島漂着人をつなぐ-」を参照)。
 下の図は、鎌倉が「夷人の図」と命名したと思われる絵です。左上に「宮良仁屋絵本」、右上に丑年(酉)六月九日と記されています。宮良仁屋は宮良安宣です。丑年(酉)は1877年です。


 右に八巻をして煙管をくゆらせる男性がいます。左側には耳輪をした幼児を抱えた女性が描かれています。白地とか水イル(色)とか配色に関する書き込みがあります。
 彼女らは1877年5月1日に波照間島に漂着したマンデーラ(ルソン島マニラ)の住人百余名で、清国へむかう途中遭難したといいます。波照間では食糧やその他の生活必書品を提供しました。返礼は受け取らないよう厳命されていました 。しかし、マンデーラの人々は律儀に綿と銅貨を波照間の人に渡したと伝わっています。そのような中、波照間で再度嵐に見舞われ、船は大破し三人の死者を出し、積荷も海中に没してしまったのです。
 5月24日、マンデーラの人々は石垣島糸数御嶽の東側の木屋に移されます。彼女らは朝晩聖書に祈りを捧げ、夕食後は盛装してダンスを楽しんでいたと古老は語っています。そのようなマンデーラの人々の姿を私たちに蔵元絵師は残してくれたのです。八重山では、「そのはん船」という上納に使っていた船を大浜村で改修させます。10月20日、マンデーラの人々を乗せ大浜湊を出港していったといいます。この船には石垣島平得の若者が密航していましたが、発見され波照間島に流されたと言います。次の謝敷節の替歌はマンデーラの女性の魅力を語っています 。
「糸数の前ぬ浜に うちやいひく波や マネラみやらびぬ み笑い歯ぐち」
沖縄をとりまく海が隔ての海のように見えますが、さまざまな人々が海からやってきて交流し文化を生み出してきたと私は思っています。
その文化を集め保存してきた役割が当館にはあるのですが、昨年度収集した自了作「野國馬の図」、崇元寺下馬碑(拓本)等の新収蔵品展が5月23日から6月23日まで開かれます。
 秋以降、戦後80年を慮って、博物館・美術館ともにさまざまな展示企画を準備しています。ぜひ、多くの方々に来館いただき、文化を交流する場にしていきたいと思っています。
 

 

2025年5月
沖縄県立博物館・美術館
館長 里井 洋一 

 

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