1. 館長あいさつ

館長あいさつ

ごあいさつ

 沖縄に暑さが戻ってきました。
 まだ朝夕の寒さが残っていた3月15日。国の文化審議会は、当館の聞得大君御殿(きこえおおぎみ うどぅん)伝来「金銅雲龍文簪(こんどう うんりゅうもん かんざし)」を重要文化財に指定する答申を出しました。私はその翌日、兵庫県立歴史博物館開館40周年を記念して開催された、特別展「兵庫・沖縄友愛提携50周年記念特別展「首里城と琉球王国」(会期:2024年3月16日~2024年5月12日)開会式出席のために、兵庫県立歴史博物館を訪問していました。当館を含む沖縄県内から出展した多くの展示品が並ぶ中に、「龍田紡績焼跡 沖縄女子挺身隊(たつたぼうせき やけあと じょし ていしんたい)」というキャプションのある写真を見つけました。

「龍田紡績焼跡 沖縄女子挺身隊(1945)」(高橋英吉コレクション) 兵庫県立歴史博物館 所蔵
「龍田紡績焼跡 沖縄女子挺身隊(1945)」(高橋秀吉コレクション)
兵庫県立歴史博物館 所蔵


 沖縄で戦場動員された女子学徒隊とほぼ同世代の女性たちが、「女子挺身隊」として、兵庫県姫路の龍田紡績焼跡にいたことを示す写真です。「沖縄女子挺身隊が沖縄ではなく、なぜ姫路にいるのだろうか?」という思いが真っ先に駆け抜けました。「女子挺身隊」写真と一緒に、撮影者・高橋秀吉さんの「日記」も展示されていました。その「日記」に基づいて高橋さんが執筆された『姫路の羅災』には、1944年4月3日、龍田紡績「寮へ沖縄からの女子挺身隊到着」と記されています。その直前、3月22日には沖縄に第32軍が創立されています。
 
 『龍田紡績80周年史』には、1945年6月1日の軍需工場要員指定名簿に、女子挺身隊93人の内、74人が沖縄出身者とあり、7月3日夜、空襲によって施設設備は焼失した、とありました。「女子挺身隊」は、1943年9月の閣議決定に基づいて、女学校同窓会、部落会、町内会などによって自主的に組織された「女子勤労挺身隊」のことです。1944年8月には「女子挺身勤労令」により、40歳までの未婚女子は全国的に勤労に駆り出されることになりました。
 
 私は帰沖後、各市町村史の中に「女子挺身隊」の記述がないか、探してみました。ようやく、『豊見城市史6巻 戦争編』(2001年刊)の中に、「女子勤労挺身隊」として龍田紡績へ赴き、飛行機の接続部品であるパッキンを作る労働をした方の体験記を見いだすことができました。体験記によると、1944年2月中旬に字(あざ)の書記から呼びかけがあり、下旬には那覇市の開洋会館に中南部の105人の女子青年が集まり、「沖縄女子勤労挺身隊」が発足し、二週間にわたって訓練をうけたとのことです。
 
 この体験記の存在を兵庫県立歴史博物館にもお知らせし、『豊見城市史』を発行した豊見城市教育委員会の承諾を得て、今回の特別展の中で、体験記を熟読できるように工夫していただきました。展覧会をきっかけに、兵庫県立歴史博物館と沖縄県立博物館・美術館や豊見城市教育委員会との間で、「知の交流」を深めることができたことは大変有りがたいことでした。関係者の皆様に心より感謝申し上げます。なお、沖縄県人会兵庫県本部35年史『ここに榕樹(ようじゅ)あり』には、沖縄出身の女子挺身隊員が尼崎の軍事工場を人員整理され、その救済が県人会を結成するきっかけとなったと記されています。
 
 沖縄が焦土と化した世界大戦の終結から79年。来年には80年目を迎えます。多くの人命を奪った戦争の陰には、「女子勤労挺身隊」のように若者が場所と時間を奪われたこともありました。薄れつつある戦争の記憶を、継承・深化していくことも当館の大切な役割です。当館の博物館常設展では、沖縄戦で甚大な被害を受けた戦災文化財や、戦後の物資難でのくらしを物語る実物資料を数多く展示しています。ぜひ当館に足をお運びいただき、歴史の記憶に触れていただければ幸いです。

2024年5月
沖縄県立博物館・美術館
館長 里井 洋一 

 

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