最終更新日:2023.08.15
令和5年9月22日(木)に開幕を迎える博物館企画展『海を越える人々(前期)琉球と倭寇のもの語り』ですが、開催準備と並行して図録の製作も行っています。外部研究者からコラム原稿の執筆依頼と入稿された原稿の編集を行ったり、図版レイアウトを考えたり、表紙のデザインを決めたりと、数えられないほどの作業があります。色々と煩雑な作業が多くて大変ではありますが、この展示に係る内容を図録のために執筆していくことにより倭寇について概観をなぞることができるというメリットもあります。
今回は図録を執筆していく中で、倭寇が活発化している状況であるにもかかわらず琉球が14世紀後半から15世紀にかけてどのように立ち回っていたのかについて、メモ程度に触れていきたいと思います。
倭寇が14世紀後半から朝鮮半島並びに中国大陸南部の沿岸部にて活動が見られる頃に、琉球王国は当時、新興国であった明朝との関係を正式に結びます。それは1371年に琉球国中山王である察度が明朝へ朝貢したことに始まりますが、このことは両国間の関係を深めただけでなく、明朝皇帝を中心とした東アジアの国際秩序の中に組み込まれていくことを意味していました。
広い国土を持たない琉球王国は北方には日本列島、南方には東南アジアというそのロケーションを活かして中継貿易を確立することにより、海洋国家としての立ち位置を獲得していきます。それと同時に那覇の湊には他地域から多くの商人が取引のために訪れるようになり、湊町として賑やかになっていきます(写真1、2)。那覇市にある渡地村跡は那覇港に面する集落遺跡ですが、過去の発掘調査により14世紀後半から15世紀前半にかけての大量の中国産陶磁器やタイやベトナム、朝鮮半島産の陶磁器といった遺物が出土していることからもその賑わいの一端を窺い知ることができます。
写真1 現在の那覇港(全景)
写真2 明治橋より国場川河口方面を望む
14世紀後半から活発化する倭寇の活動は「前期倭寇」と呼ばれており、この時期に中国大陸沿岸部の治安は悪化の一途を辿っていました。そのような中で琉球王国は明朝へ使節を派遣していていました。治安の悪い海域を往来することは琉球王国にとって大きな課題であったと思われますが、明朝は大型船を琉球へ与えることで、その問題を解消させていきます。
この大型船は福建省の崇武千戸所(写真3)に所属していた軍船であることが岡本弘道氏の研究によって明らかになっています。さらにこの軍船は最大乗員数366人であることが考えられていることから、当時としては最大級の軍船を琉球王国は明朝から与えられ、使いこなしていったと言うことができます。倭寇にとってこのような大型の軍船を襲撃することはとてもリスクを伴うものと考えられることから、琉球王国の使節を乗せた船は中国大陸沿岸部を航行する際に襲撃に遭わなかったことも想像されます。
写真3 現在の崇武千戸所城
琉球王国の船は明朝への入国の際は市舶司と呼ばれる役所へ入国の手続きをする必要がありました。その施設は14世紀後半から15世紀後半にかけては福建省の泉州にあり、福建省でも南側に位置していました。当時の史料では琉球王国の進貢船は最初に福建省の北部に位置する福州や浙江省の瑞安に寄港することが多かったようで(写真4)、中国沿岸部の港を数カ所経由しながら南下して泉州へ入港していたものとみられます。その海域は倭寇の活動範囲であり、進貢船が襲撃される可能性も大いにあったことを見越して、明朝は大型軍船を琉球王国へ与えたものと思われます。
その後の1470年代からは市舶司が泉州から福州へ移設され、以降は泉州へ琉球王国の進貢船が入ることは無かったと見られます。
このように前期倭寇と琉球王国とは直接的な関係を史料上においてほとんど見ることはできませんが、当時における琉球王国の進貢船からその関係を透かして見ることができます。
主任学芸員 山本正昭