令和5年度の博物館企画展は「琉球と倭寇のもの語り」というテーマで開催することになっていますが、当企画展を担当することになって改めて『倭寇』という存在について考える機会を得ることができました。この倭寇を考えていったときに日本列島で現れたある無頼集団についての存在が浮かび上がってきたので、今回はその集団について少し触れていきたいと思います。
写真2 『籌海圖編』所収「日本島夷入寇之圖」
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14世紀中頃から朝鮮半島並びに中国大陸沿岸部において沿岸部の官庁施設を攻撃し、都市や村において略奪行為を行う武装集団が現れ、それらをまとめて史料上において倭寇としています。この頃の倭寇と呼ばれる無頼集団は日本列島を根拠地にしているされています。
この時期においては日本列島では鎌倉幕府が倒れて、天皇家が2つに分かれて争う南北朝期へ入っている時期でした。このような動乱の時代となっていったことから、「悪党」と呼ばれる支配者層に反抗する集団が各地に現れて、やがて経済活動にも参画していくようになります。
このような人々が海を越えて交易の担い手になり、14世紀中頃に中国大陸沿岸部の治安悪化したことに乗じて、現地の人々と商取引を行っていくようになっていった一方で倭寇としての活動へと身を投じていったことは想像に難くありません。16世紀に成立した『籌海圖編』の「日本島夷入寇之圖」(写真2)には倭寇が中国大陸へ入域するルートに「五島」「対馬」近辺として描かれていますが、この背景には悪党との関係性が指摘されます。
③悪党と倭寇の共通性はあるのか
また、「悪党」は自らを悪党とは呼んでおらず、荘園を所有する支配者層によって付された呼称になります。悪党とは貴族や寺社が有している荘園の権益を奪うおうとする人々を指しており、悪党の「悪」とは「命令や規則に従わないもの」という意味が含まれています。つまり支配者層から見て命令聞かず、従来の規則を破る人々を総じて「悪党」と称していました。
「倭寇」についても自らを倭寇と呼んでおらず、明朝や高麗朝といった為政者側が付けた呼称で、掠奪を行う倭人の姿をした人々という意味になります。
「悪党」や「倭寇」も普段は商人や零細な漁業従事者であり、何かの切っ掛けで有事が起きると武装し、悪党や倭寇として活動していたものと思われます。
15世紀になると悪党は各地の守護大名から荘園の権益を認めてもらう一方で、その傘下に組み込まれていきます。それに伴って悪党の存在は希薄になっていきました。