最終更新日:2022.05.06
毎年5月18日は国際博物館会議(ICOM)が提唱する「国際博物館の日」です。
世界共通テーマをもとに、全国の博物館・動物園・水族館等で、この日を中心にさまざまな記念事業が開催されます。2022年のテーマは「博物館の力-わたしたちを取り巻く世界を変革するもの:The Power of Museums: Museums have the power to transform the world around us」。2022年は沖縄の日本復帰50年でもあります。
今回のコラムでは、戦前・戦後の沖縄県における博物館のあゆみを、太平洋戦争と米軍統治にまつわるエピソードを交えて振り返ります。
現存する博物館等施設は、すべて戦後に設立された施設ですが、実は戦前の沖縄にも博物館がありました。沖縄縣教育會が主体となって、1932(昭和7)年に那覇市旭町に完成した昭和會館内に設置された教育参考館、そして教育参考館を発展的に引き継いで、1936(昭和11)年に首里城北殿に設置された郷土博物館がそれです(園原2002)。博物館設立を牽引したのは、沖縄縣教育會主事の島袋源一郎(しまぶくろげんいちろう)氏(1885~1942)で、そこに至るまでには沖縄縣教育會、沖縄郷土協會、首里市等の機関団体や県下の教職員、青年団をはじめ、多くの県民の理解と協力がありました。
教育参考館の調査収集は美術、工芸・建築、地歴、博物、教育の5部門からなっており、1939(昭和14)年11月15日に刊行された沖縄縣教育會附設郷土博物館の資料目録には、図書及び版木、図表、書画写真及び彫刻文房具、金石文拓本、染織、漆器、風俗資料、陶磁器、石器、博物標本の10項目にわたって、1433件(5404点以上)の資料が掲載されています。紅型類(型紙含む)や書画、石碑拓本、陶器が多く収蔵展示されており、美術工芸資料の比重が高かったことがうかがえますが、火熨斗(ひのし)やクバ笠、宮古島の法螺薬缶(ブラヤックヮン)、ハワイの毒刀といった民俗(民族)資料や浦添城、勝連城からの発掘品、貝塚出土の貝器・牙器・骨器のほか、貝類、鉱物、植物、昆虫標本といった自然史資料も含まれていました。さらに、首里城正殿2階の「宝物殿」には、国王の轎(きょう)(輿)、王妃の駕籠、涼傘(リャンサン)など国王行列の際の道具類も展示されていました。このほか、常設展示ではありませんでしたが、ある貴族院議員から寄贈された明治天皇の衣類などの「皇室御関係の宝物」も所蔵されていました。
1941(昭和16)年12月8日未明(日本時間)に太平洋戦争が勃発すると、博物館も戦争に巻き込まれていきます。戦局が悪化した1943年には郷土博物館は閉館に追い込まれ、1944年の10・10空襲後、資料の本土疎開が検討されましたが許可されず、大半の博物館資料は首里城内の洞窟や、円覚寺前にあった師範学校の修養道場などに移されました。その後、同校は日本軍の兵舎にあてられ、一般人の立ち入りは禁止されました。1945(昭和20)年4月1日の米軍上陸とともに戦況は悪化し、同年4月半ばに首里城は全焼、博物館資料も灰燼(かいじん)と化しました。郷土博物館に展示されていた資料で現存が確認できるのは、三線・江戸与那(サンシン・えどよな)や旧首里城正殿鐘(万国津梁の鐘)、龍淵橋勾欄羽目(りゅうえんきょうこうらんはめ)(戦後に回収)など数例しかありません。
博物館の類似施設として、沖縄縣師範学校・女子師範学校に設けられた郷土室(1931年頃に師範学校、1934年頃に女子師範学校に設置)がありました(阿波根1985・1987)。これは郷土教育の推進を目的として、文部省から交付された補助金「郷土研究施設費」によって整備された校内施設でした。当時の郷土教育とは「生徒をして各自の生活舞台たる土地及自然に関する知識並に文化及文化史実の正しき認識を得しめ、且郷土生活の体験に即して、正当なる郷土感を養成し、郷土社会の為に、推進貢献奉仕せんとする純真なる郷土愛護の精神を涵養(かんよう)し、成業の暁 国民教育を担任するに当って、正鵠(せいこく)なる郷土教育を実施するの能力を得せしむる」ことを目的としていました。そこでは「沖縄は根本的に日本国なのであるから郷土愛を培うことによって親国愛を涵養すべきだ」という趣旨が強調されており、「愛国心」を育む手段としての「郷土教育」という側面が強かったようです(阿波根1985)。
郷土室の目録には修身・教育・公民・文学・語学・歴史・地理・数学・理化・博物・農業・美術工芸・体育・音楽(師範学校)、修身教育・公民・國漢・歴史・地理・数学理科・化学・家事・手工・農業・音楽(女子師範学校)の科目別に資料が掲載されており、歴史・地理資料(衣裳・拓本や岩石標本を含む)と並んで理科・博物の資料(染料・薬草・窯業原料や生物標本)も多く集められていました。郷土博物館と比較して、学校の教材としての性格が強く、自然史標本も多くあり、生徒の学習作品も収められていた点に特徴があると言えます。これらの郷土室も、1945年の沖縄戦によって灰燼に帰してしまいました。
戦前の沖縄には首里城を中心に国宝の建造物が11件22棟(国宝保存法による指定)あり、これは京都、石川、奈良とともに日本で五指に入るほどの数でした。沖縄戦では首里城地下に日本軍の司令部が置かれていたことから、首里とその周辺は激戦地となり、これらの貴重な歴史遺産もそのほとんどが失われてしまいました。
しかし焦土と化した沖縄で、早くも1945(昭和20)年8月には米海軍軍政府・文教部長ウィラード・A・ハンナ氏(1911~1993)とジェームス・T・ワトキンス氏(1907~1982)によって、戦災文化財や戦場から救出された品々を集めたOkinawan Exhibition(沖縄陳列館)が石川市(現うるま市石川)東恩納に設置されました。その目的は、展示を通して米軍人に沖縄の歴史や文化を教育・普及するというものでした。沖縄陳列館は1946年4月に沖縄民政府に移譲され、東恩納博物館と改称されました。また、1946年3月頃には、豊平良顕氏(1904~1990)を中心に瓦礫の山と化した首里で文化財の残欠の収集が始められ、首里市立郷土博物館の基礎となりました。現在の沖縄県立博物館・美術館は、戦災文化財の収集に端を発した東恩納博物館と首里市立郷土博物館、それらを母胎として復帰以前のアメリカ統治時代に設立された琉球政府立博物館をルーツとしています。
戦前の沖縄に存在した郷土博物館や師範学校郷土室は、現代の博物館とも重なる性格や機能もつ一方、愛国心を涵養する手段としての郷土教育の場でもありました。沖縄戦によって戦前の博物館施設は失われ、戦後の博物館は戦災文化財をはじめとするモノ資料を、戦場からレスキューすることから再スタートすることになりました。
現代は、言葉や文字、記号といったデジタル情報があふれかえる時代です。ネットを検索すれば、いくらでも欲しい情報を手に入れることができますが、デジタル情報は改ざんも可能で、真実だけを伝えているわけではありません。一方、博物館のモノ資料は過去を物語る物的証拠です。弾痕を受け、焼け焦げた戦災文化財の姿や色は、77年前の沖縄戦でどのようなことが起きたかを伝えてくれています。アナログなモノ資料から事実を伝える場として、博物館の担う役割と責務は益々重要性を増しています。
平和が維持されなければ博物館は存在できません。現在でも、世界各地では戦争・紛争が絶えまなく引き起こされ、多くの人々が傷つき、自然環境が損なわれています。教育研究に資する標本や人類が生み出したすばらしい遺産や作品、そしてそれらを収蔵展示する博物館や文化施設が失われようとしています。博物館を通して少しでも多くの人々が、平和で豊かな暮らしを享受できる日がやってくることを願ってやみません。
文献
阿波根直誠 1985「沖縄の師範学校における『郷土室』について(Ⅰ)」『琉球大学教育学部紀要』28:195-247
阿波根直誠 1987「沖縄の師範学校における『郷土室』について(Ⅱ)」『琉球大学教育学部紀要』30:213-257
園原 謙 2002「沖縄縣教育會附設郷土博物館について」『沖縄県立博物館紀要』28:13-54頁
博物館班