最終更新日:2020.05.19
さて、前のコラムではこれまでに指摘されている御供飯の名称論について簡単に整理してみました。それに続く本コラムでは、当館が所蔵する御供飯(うくふぁん)の箱書きから館蔵御供飯の名称について改めて考えてみたいと思います。(実のところこっちが本題で、この話をしたいがために前のコラムを書きました。)
1.箱書きについて
前のコラムでも触れましたが、当館所蔵の御供飯は伊東忠太氏が旧蔵していたものです。昭和30(1955)年10月24日付の日本経済新聞の記事には、伊東氏が琉球政府立博物館(後の沖縄県立博物館・美術館)に御供飯を寄贈したことが掲載されています。御供飯という名称がいつ頃から使用されているかは不明ですが、戦後における「御供飯」という名称の普及は当館の御供飯がきっかけでしょう。
現在、伊東氏から提供された御供飯は、県指定有形文化財に指定され「朱漆巴紋沈金大御供飯(しゅうるしともえもんちんきんうふうくふぁん)」という名称で収蔵されています。
そんな当館の御供飯、この漆器が何という名称であるかがわかるよう、でかでかと蓋の箱書きに書かれています(図1)。あえて文字に起こすほどでもありませんが、前コラムでも触れたとおり「琉球/漆器 御供飯 / 伊東忠太」と書かれています。しかし、改めて箱書きを見ていると、他にも文字が書かれていることが分かりました。図1における各辺の真ん中あたりに、計4つの文字が書かれています。それぞれを拡大したのが表1になります。わかりやすくするため、ここでは上から時計回りにそれぞれの文字を①~④としてみます(図2)。
いずれも下半分が切れて非常に読みづらくなっていますが、①が「玄(くろ)」、②が「青」、③が「朱」、④が「白」と書かれています。なぜこのような状態なのでしょうか?それぞれの文字の周りをよく見ると、何かを貼ってあった跡が見受けられます。そして、その跡をたどると身の側面まで続いています。身の各側面にある何かを貼った跡のあたりには、それぞれ別の文字が書かれていることもわかりました。
各面の文字を拡大したのが表2になります。蓋と同じ要領で時計回りに⑤~⑧としてみます(図3)。身側面の箱書きは、上半分が切れて読みづらくなっています。それぞれを読むと⑤が「武」、⑥が「龍」、⑦が「雀」、⑧が「虎」と書かれています。
これらの文字と何かを貼ってあった跡から、蓋と身の各面に紙もしくはシールの様なものを封変わりに貼り、封が開けられていないことを示すため封と箱にかかる形で文字を書いていたと思われます。ちょうど、封筒に「減」の印を押したり、「〆」の字を書いたりするのと同じ感じです。
では、それぞれの文字の意味は何なのでしょうか?勘の良い方はもうお気づきかもしれませんが、実は蓋と身の文字はそれぞれ対応するようになっています。例えば、蓋に書かれた①の「玄」と身に書かれた⑤の「武」、これを併せると「玄武(げんぶ)」という風になります。同じ要領で行くと、②と⑥で「青龍(せいりゅう)」、③と⑦で「朱雀(すざく)」、④と⑧で「白虎(びゃっこ)」となります。つまり、蓋と身は四神が対応する位置で貼り紙が貼られていたのです。また、これをもとにすると。蓋が閉まる位置は決まっており、蓋の箱書きは、正しくは図4のようになるのです。名称とは直接関係はありませんが、伊東忠太氏による心憎い演出だなと思います。
さて、箱書きから名称を考える上で気がかりなのが、「御供飯」と書いて何と呼ぶのか、という点です。研究者や学芸員のなかでも、「ウクハン」や「ウグファン」などいくつかの読み方が使われていますが、いったい何が正しいのでしょうか?御供飯を旧蔵していた伊東忠太氏は、大正の頃に来沖して「神宮寺」にて蓋付脚高盆を目にし、そのことをメモに残しています。調査記録ノート『野帳』第22号(沖縄)「神宮寺」の項によると、蓋付脚高盆のことを「Ukufan / ウクファン」と書いています。このことより、「御供飯」と書いて「ウクファン」と読むことが分かります。すでに数人の研究者によって指摘されていますが、未だに複数の呼び方をされているので、これを機に「御供飯(うくふぁん)」という読みが定着していくと幸いです。
2.身側面の貼り紙について
蓋と身に箱書きがあることについて触れましたが、身側面には貼り紙も貼られており英語で資料概要が書かれています(図5)。英字部分を文字に起こすと次のようになります。
「ML-152 / Religious offering Bowl. / Red lacquer with gold incised design / peony, all over. □(K)ings crest. / Two pieces, top and bottom. / Bottom stand has cut out sides to / form “legs”」
ML-152の意味は分かりかねますが、この漆器が朱漆塗であること、沈金で王家の紋(左三巴紋)と全面に牡丹をあらわすこと、蓋と身で構成されることなどが書かれています。この貼り紙について、何かの論文等で紹介されているのを見た覚えはありませんが、実はこの貼り紙は当館の御供飯の名称を考える上で非常に大きな情報を持っています。
改めて図5に目を向けると、英文の右下にうっすらと何が日本語で書かれているのが見えます。鉛筆書きによるもので、経年劣化の影響かかなり字が薄くなっています。かろうじて読み取れる部分を文字に起こすと「□(朱ヵ)塗沈金□(供ヵ)□□(食籠ヵ?)(御供飯(大」と書かれていることが分かりました。
当館所蔵の御供飯は、「朱漆巴紋沈金大御供飯」という名称で登録されています。これまで「御供飯」という蓋の箱書きは紹介されていましたが、なぜ「大」御供飯なんだ?という指摘がありました。確かに、徳川美術館の御供飯と寸法を比べると当館の御供飯のほうが小さく、鎌倉資料の御徳盆の寸法と比べるとほぼ同じで、当館所蔵の御供飯が特別大きいわけではありません。
しかし、「大」御供飯という名称になっているのは、身の貼り紙に書かれている鉛筆書きがもとになっているのではないかと考えます。この鉛筆書きが伊東忠太氏によって書かれたものかは不明ですが、当館の御供飯の名称の由来はここにあるのではないかと思います。
3.当館の御供飯の名称を改めて考える
これまで紹介した通り、戦前の記録では蓋付脚高盆の名称に「御徳盆」を使用していますが、当館の御供飯の箱書き・貼り紙には「御供飯」や「御供飯(大)」など、現在使用している名称のもとになる情報が記されています。
実は、これまでにも、何度か「御供飯」という名称が正しいのか?という問い合わせがありました。この「御供飯」という名称を引き続き研究する必要はありますが、この漆器の名称をどうするかについてはいくつかの考え方があると思います。
一つ目は、箱書きから得られる情報をもとに、そのままの名称を使用する方法。
二つ目は、伊東忠太氏の箱書きに則りつつ、「大」の字を抜く方法。
三つ目は、「御供飯」というのは戦後からの使用しか確認されていないので、琉球王国時代の名称に則り「御徳盆」とする方法。
私個人としては「御供飯」は琉球王国時代に使用されていた根拠を見出せず、いつごろからの使用かはっきりしない名称なので「御徳盆」としたほうが良いのではないかと考えます。王国時代の名称、特に『混効験集』でいうところの「正式の御盆なり」という意味を持つこの「御徳盆」は、この漆器が他の御盆とは格式が違うということを示す上でも重要なことと考えるからです。しかし、同時に伊東忠太氏の箱書きにある「御供飯」という名称も守り伝えなければなりません。ある時期からかこのような名称が使用されたということを伝えるのも、この漆器の歴史を語る上で大切なことだからです。
いずれにしても、指定名称を簡単に変更することはできませんが、もしかしたら、今後ほかの御供飯も含めて、「御供飯」は「御徳盆」と呼ばれる日が来るかもしれません。
今後、さらなる調査研究を進めていきたいと思います。
【主要参考文献】
・小池富雄、上江洲安亨、安里 進「琉球王族の祭器・御供飯と御籠飯」(『首里城研究』Vol.18 首里城研究会編・首里城公園友の会発行 2016年3月31日)。
学芸員:伊禮拓郎