最終更新日:2020.05.12
御供飯(うくふぁん)は、琉球の王家・王族家で使用された祭祀道具です(図1)。S字に湾曲する六本の脚を有する蓋付脚高盆(ふたつきあしたかぼん)は、他の地域には見られない琉球漆器独特の器種です。形の分類でいくと、食籠(じきろう)の一種として扱われています。
琉球を代表する漆器と言えるものですが、世界中で見ても、当館が所蔵する「朱漆巴紋沈金大御供飯(しゅうるしともえもんちんきんうふうくふぁん)」、徳川美術館が所蔵する「朱漆花鳥密陀絵七宝繋沈金御供飯(しゅうるしかちょうみつだえしっぽうつなぎちんきんうくふぁん)」、ホノルル美術館が所蔵する「朱漆巴紋牡丹沈金御供飯(しゅうるしともえもんぼたんちんきんうくふぁん)」の3点しか現存が確認されていません。また、文献や写真による記録も少なく、未だ謎多い漆器でもあります。
「御供飯」という名称がそもそも正しいのかという意見もあります。実のところ、戦前の文献史料等に「御供飯」と記述している例はなく、専ら「御徳盆(うとぅくぶん)」と記されています。このことは『首里城研究』Vol.18において、特に安里進氏が指摘しているので是非ご参照ください。
本コラムでは、すでに安里進氏らが指摘している名称論を簡単に紹介・整理していきます。その上で、次のコラムで、当館所蔵の御供飯の箱書きと名称について考えてみたいと思います。
1.戦前の記録に関する指摘
御供飯の名称を考える上で重要になってくる史料が二つあります。一つ目は沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館が所蔵する重要文化財「琉球芸術資料写真〈鎌倉芳太郎撮影〉」(以下、鎌倉資料)の古写真及びメモ記録、二つ目は那覇市歴史博物館が所蔵する国宝「琉球国王尚家関係資料」(以下、尚家資料)の一冊である『御葬具図帳(おそうぐずちょう)』です。
まず、鎌倉資料を見てみましょう。この資料群は、戦前に来沖した鎌倉芳太郎氏の調査記録(1921~1939年)で、多くのノート記録とともに写真記録等が残っています。その古写真の中に、「中城御殿 御法事道具 朱塗御徳盆(なかぐすくうどぅん おほうじどうぐ しゅぬりうとぅくぶん)」と銘打たれた御供飯の写真と、それに対応する記録があります。中城御殿とは、いわゆる琉球国王の世継ぎが住む邸宅を指し、世継ぎその人を指す場合もあります。この御供飯は、王子宅で法事の道具として使用されており、「御徳盆」と呼ばれていたことが分かっています。朱塗御徳盆の画像は、本コラムに掲載しませんが、『沖縄文化の遺宝』や沖縄県立芸術大学が開設しているHP「鎌倉芳太郎資料画像データベース」などで見ることができますので是非ご覧ください。
次に、『御葬具図帳』についてです。この史料は、尚家資料の一冊で、琉球最後の国王・尚泰の葬儀に使用した道具類を描いています(1901年)。その中に、「御食案御徳盆一揃(おじきあんうとぅくぶんひとそろい)」という道具があります(図2)。この絵図には、蓋付脚高盆と大中の蓋付椀、蓋付の小椀、卓子(たくし)が描かれています。具体的な使用方法はわかりませんが、葬式関係の道具として「御徳盆」と呼ばれる漆器を使用していたことが分かっています。
王国時代から戦前までの記録に見られる御供飯の絵・写真はこの2つしか見つかっていませんが、これらのことから少なくとも戦前までは蓋付脚高盆のことを「御徳盆」と呼んでいたことが指摘されています。
2.「御徳盆」とは何なのか?
戦前の二つの資料において、蓋付脚高盆のことを「御徳盆」と呼んでいますが、「御徳盆」とはなんなのでしょうか。
琉球王国時代の辞書である『混効験集(こんこうけんしゅう)』には、「於とくぼん 御徳盆 / 正式の御盆なり」とあります。
最初に触れたとおり、蓋付脚高盆は形の上では「食籠(じきろう)」という種類に分類されます。しかし、琉球において「食籠」を指す語には「御籠飯(うくふぁん)」という名称もあり、この名称も『混効験集』で紹介されています。ですが、それぞれの解説を比較すると「御徳盆」は「正式の御盆なり」とあることから、「御籠飯」より格上だということが指摘されています。
3.御供飯という名称は何なのか?
これまでの指摘からすると、蓋付脚高盆は「御徳盆」と呼ばれていたはずですが、現存する3点はすべて「御供飯」と呼ばれています。それはいったいなぜなのでしょうか?
「御供飯」という名称がいつごろから使用され始めたかははっきりしませんが、昭和30(1955)年10月24日の日本経済新聞に伊東忠太氏が琉球政府立博物館に「御供飯」を寄贈したという記事が今のところ一番古い用例だと指摘されています。琉球政府立博物館は何度か名称を変え、今の沖縄県立博物館・美術館となるので、この記事にある寄贈された御供飯こそが当館が所蔵する御供飯のことです。
伊東家からの譲渡を受けた当館所蔵の御供飯は、蓋の箱書きに「琉球漆器 御供飯 / 伊東忠太」と書かれています(図3)。つまり、伊東がこの漆器を「御供飯」と呼称したことが、当館の蓋付脚高盆を「御供飯」呼ぶ原点なのです。
さて、1955年に当館が収蔵した御供飯ですが、これがのちに他の蓋付脚高盆の名称にも重大な影響を与えます。
昭和43(1968)年、山里永吉氏(琉球政府文化財保護委員長)と外間正幸氏(琉球政府立博物館館長)は、徳川美術館で同館が所蔵する「御供飯」を見たようです。徳川美術館が開館する前の尾張徳川家の記録では、この蓋付脚高盆のことを単に「匧(はこ)」と呼んでいたそうです。しかし、山里・外間両氏が、この漆器は「御供飯(ウグファン)」という名称だと伝えたらしく、これにより徳川美術館でも「御供飯」という名称に改称したということが徳川義宣氏(徳川美術館館長)の論文に示されています。
山里・外間両氏が、指摘するからにはそれなりの根拠があったはずです。その根拠こそが、現在当館が所蔵する伊東忠太旧蔵の御供飯とその箱書きなのです。
当館所蔵の御供飯以降、徳川美術館も「御供飯」という名称を使用し、ホノルル美術館の蓋付脚高盆が沖縄で紹介される際も「御供飯」という名称を使用するようになってきました。
これらのことより、安里進氏は、近世から戦前までは「御徳盆」と呼ばれていたが、戦後になって御供飯という名称が普及したということを指摘しています。
次のコラムでは、箱書きなどから当館の御供飯と名称について考えてみたいと思います。(謎多き漆器「御供飯」② ~箱書きから見る館蔵御供飯の名称~https://okimu.jp/museum/column/1589868283/ に続く)
【主要参考文献】
・小池富雄、上江洲安亨、安里 進「琉球王族の祭器・御供飯と御籠飯」(『首里城研究』Vol.18 首里城研究会編・首里城公園友の会発行 2016年3月31日)。
・徳川義宣「朱漆花鳥七宝繋文沈金御供飯」(『國華』第1264号 国華社 2001年2月20日)。
学芸員:伊禮拓郎