最終更新日:2011.12.16
ハワイ大学所蔵「毛姓世系図」
2011年10月、第5回世界ウチナーンチュ大会が開催されました。世界各国から多くの沖縄系移民の方々が来訪され、賑やかなお祭りのなかで、お互いのルーツを確かめあい、交流を深めていかれました。その最中、当館にもハワイから里帰りしていた資料があります。内間家家譜「毛姓世系図」は、2010年11月にハワイ大学に寄贈され、今年6月に修理のために里帰りしました。ハワイ大学のご厚意で、10月4日(火)~16日(日)までの期間、展示公開して県民および世界のウチナーンチュの皆様に見ていただくことができました。
沖縄は去った第二次大戦において地上戦を体験し、多くの文化財が失われました。その中で生き残り、海外で大切に保管されてきた資料が発見されることは大きな喜びであり、新たな可能性が広がりました。
この内間家家譜の物語をご紹介しましょう。
内間家は、元祖は新城親方安基(あんき)から繋がる一族で、安基から4代目澤岻(たくし)親方安則(おやかたあんそく)の6男である安全(あんぜん)毛晟文(もうせいぶん)のときに一度枝分かれし、さらに7代目の内間親方安たい(”にんべん”に貴)の次男である安繁(あんはん)から分家しています。
『那覇市史』には「毛姓家譜(原)五世内間親雲上安全 豊世嶺家」の掲載があり、安たいの業績が詳細に記載されています。
家譜とは、琉球王国時代に作られた戸籍のようなもので、王府によって許可された者だけが作成が認められていました。家譜を持つことができる士族を系持(けいもち)、それ以外を無系として区別していました。
「毛姓家譜(原)五世内間親雲上安全 豊世嶺家」によれば、安たいは康煕32年(1693)に生まれました。康煕49年(1710)、安たいが17歳の時に将軍家宣の就任祝いの慶賀使と、尚益王の即位を感謝する謝恩使が派遣されることになり、安たいは楽童子として使節に参加することになりました。その後、尚敬王、尚穆王3代の王に仕え、御物奉行となり、乾隆25年(1760)に享年68歳で亡くなりました。
ハワイ大学宝玲(ホーレー)文庫所蔵の「宝永(ほうえい)七年寅十一月十八日琉球中山王両使者登城行列(りゅうきゅうちゅうざんおうりょうししゃとうじょうぎょうれつ)」は1710年の琉球使節の様子を描いた絵巻物で、そこに描かれた楽童子(がくどうじ)の内間里之子が安たいです。絵巻の中の人物が家譜の内容から裏付けられることは極めて稀な事例です。
今回、ハワイ大学に寄贈された内間家家譜はその安たいの次男・安繁(8世)を小宗として分岐した家系で、安要(あんよう)(12世)に至るおよそ120年にわたる家族の記録です。
明治12年(1879)に琉球王国が崩壊すると、王府の役職についていた内間家の人々は美里村に拠点を移し、農業に従事するようになりました。明治33年(1900)に最初のハワイ移民が排出されると、内間家祖先はいち早く移民としてハワイに渡り、サトウキビ栽培に従事するようになりました。
沖縄に残った人々は、沖縄戦の最中、家譜を大切に腹巻きに入れて、肌身離さず守りぬきました。戦後、那覇市が家譜資料の調査を行った際には、内間家家譜は美里村にありましたが、昭和36年(1961)にハワイの内間家の人々の元に、位牌などと供に届けられました。その後、内間家の人々はハワイを根拠地にアメリカ全土に広がっていきました。
この内間家の物語は、世界のウチナーンチュの人々のファミリーヒストリーのモデルのようなものだと思います。現在、ハワイ移民は5世、6世の世代になって、最初に移民として渡った祖先の記憶が失われつつあります。その中でウチナーンチュというアイデンティティを持ち続けるには、言語や文化、歴史のなかで自らのルーツを位置づけていくしかないでしょう。来沖される方々の多くは、自らの祖先の出身地を探しに来られます。しかし、一方では沖縄戦や多くの要員で失われてしまった文化や言語が移民先の社会では残っていることが多々あります。ハワイだけでなく、南米や北米の沖縄系移民の人々の中に、自らのルーツにつながる資料が残されているかもしれない。
今後も新たな資料の発見の可能性を期待しています。
学芸員 早瀬千明