1. 癒しと喜びの器―工芸品と楽器の2つの顔をもつ三線

癒しと喜びの器―工芸品と楽器の2つの顔をもつ三線

最終更新日:2011.05.27

写真1.常設展示の戦後コーナー

写真1.常設展示の戦後コーナー写真1

写真2.カンカラ三線

写真2.カンカラ三線

写真3.琉球人舞楽図(部分)

写真3.琉球人舞楽図(部分)

写真4. 楽童子

写真4. 楽童子

写真5. 三線盛鳴開鐘

写真5. 三線盛鳴開鐘

人はどのような時に歌を口ずさんだり、聴きたくなったりするのか。歌謡で心の傷を癒されることがある。 人は喜怒哀楽を歌にこめて表現することができる。歌に興じ、感化され、共鳴する、人の心が古今東西にはある。

ここ沖縄においては、古くはオモロや琉歌があった。オモロの世界には、国王や聞得大君、地方のノロたちなどを讃える、いわば沖縄の人々の讃美する心が宿る。言葉に霊力が宿ると考える「言霊」信仰は、言葉のもつパワーが予兆的な意味をもち、未来を規定するのではないかという呪術的な意味が含まれ、人々の心を支配するという考え方がある。

「歌は人とあり、人は歌とあり。」という言葉がある。「3.11」の東日本大震災の被害者の心を癒し励ますためテレビやラジオは特番を組み、なつかしの歌謡曲がマス・メディアから流れる機会が増えたように思える。

突発的な天地異変による災害の前に、文明は手の施しようがない。この大震災によって多くの尊い生命が失われた。親や子、孫、友人など愛する人びとを喪失した人の心情は筆舌にしがたい。また物質的には、現世の家ばかりか、あの世の家(祖先の墓)までも津波に流された人々の虚無感は想像を絶し、人々の心のケアーは早急の課題といえよう。

「廃墟と化す」という言葉は、沖縄では先の大戦(沖縄戦)で地域社会を喪失した時の言葉として用いられることが多い。鉄の暴風によって沖縄の大地は文字どおり廃墟と化した。廃墟を色で例えるなら、爆弾による焼失の黒こげで、その色は一般的に「黒」「灰色」が想起されるが、沖縄では黒ではなく白と言われる。なぜなら、大小約3000万発の米軍の銃砲弾、いわゆる鉄の暴風でえぐられた大地は、琉球石灰岩が粉砕され、消石灰として一面を雪化粧のように覆ったことによる。九州に疎開した児童たちの沖縄への生還の証言がある。洋上から次第に浮かび上がってくる、かつての我した島の緑色は、白色の焦土になっていたという。

琉球王国時代の17世紀から江戸立ち(上り)が行われた。慶賀使らとともに15歳から18歳の楽童子が同行し、彼らの舞踊や三線楽が将軍の前で披露された。また諸大名の屋敷において楽童子らの楽は人々を楽しませたにちがいない。天下太平の大江戸で、異国の音色をもつ明清楽や琉球楽は異色であったにちがいない。大和の人々の感性にその音色はどのように響き、人々はどのように琉球人舞楽図(部分)それを受けとめたのだろうか。「琉球人舞楽図」と呼ばれる絵画がある。年輩の楽師が画面右端に構え、8名の若き楽童子が奏楽や舞を演じる様子を描いた絵図である。琉球芸能を担う若き少年たちの躍動感ある舞、艶やかで伸びのある高音の歌声、三線、太鼓、笛のリズミカルな刻みが今にも聞こえてくるようである。

琉球王国時代、士族の学芸であった三線楽は、廃藩置県以降は、士族層が地方(平民の集落の近く)へ移り住み屋取集落などを形成することを通して、地域芸能として伝播し、沖縄の人々(平民)の生活の中に根ざしていくことになっていった。

沖縄戦によって、多くの住民の生命と貴重な文化遺産が喪失の憂き目にあった沖縄では、日米の非条理な戦争の犠牲になり肉親を失った人々が絶望の底に陥った。その時、沖縄の人々の心傷を如何に癒すのかは、米軍をはじめ統治者にとっては最大の関心事であったはずである。その時、沖縄住民による行政機関であった沖縄諮詢会は官営の3つの劇団(松劇団、竹劇団、梅劇団)を創設し、各収容所に収容された人々の心を慰問した。生きることの意味を示唆し、亡くなられた人々の分まで生を全うすることメッセージとして伝えた。米軍のレーション(野戦食)の直径16cmの缶(カンカラ)を切って、三線の胴をつくり、廃材を利用し棹を造った。糸蔵を彫り、テグスの糸を張り、粗末な三線を造った。三線の音響の構造は、つま弾かれた弦の振動が竹駒を通して共鳴体として胴の蛇皮を振動させ、音を増幅させる仕組みである。カンカラの胴の金属表面は蛇皮のようには振動することはない。共鳴しない胴は、朴訥とした音しか出ない。その音は大きくは響かない。カンカラ三線の艶のない音は、哀愁を帯びた音になる。沖縄戦の後、収容所の中でカンカラ三線は生まれ、戦後の三線楽が出発した。

三線を大切に思う沖縄の心は、琉球政府時代の文化財保護委員会が三線を美術工芸品において最初の特別重要文化財として指定したことに現れているように思える。昭和29年に日本政府の文化財保護法を模して琉球政府の文化財保護法は制定された。戦後沖縄からの文化財の流出を防ぐために、とくに動産的文化財といわれる美術工芸品の指定は急務とされた。三線(当時は「三味線」と呼ばれた。)は昭和30年から33年にかけて11丁が指定された。

その第2弾の三線の文化財指定は復帰後の平成6年に行われた。文化庁の補助事業として「県内所在琉球三味線調査」を平成元年度から平成4年度までの4カ年間実施ことに基づく。島々をめぐり戦前製作された三線を対象に調査し、612丁の三線を報告書に収録した。その中から由緒・来歴、型など工芸品として適正を吟味し、9丁の三線が新たな指定文化財として加わることになった。その中には、三線の首座といわれる、旧王家伝来の盛嶋開鐘がある。楽器が美術工芸品として単品指定され、複数にあるのは全国でも珍しい。

2010年に沖縄芸能を代表する「組踊」が世界遺産(無形文化遺産)に登録された。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録されて以来の快挙である。今日沖縄の夏の風物詩とされる全島エイサー大会は戦後11年目の1956年にコザ市(現沖縄市)で始まり、戦で傷ついた人々の心の傷痕を癒す役割を果たしたと思われる。

戦後66年の今年は、また沖縄が祖国復帰して39年目の年でもある。今日もまたどこかで三線の音色は人々の心を癒し、和ませ、元気や生きる勇気を与えるにちがいない。

主幹(学芸員) 園原 謙

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