1. 第一尚氏王統の時代とは

第一尚氏王統の時代とは

最終更新日:2025.06.24

 はじめに

 今から600年前の1425年、尚巴志は「中山王」の称号を明朝から与えられて、名実共に琉球の王として君臨することになります。父である思紹を初代とし、第7代国王の尚徳(別表)までの第一尚氏王統では、周辺の地域への征討と内乱が続きました。今回はこの波乱の時代について触れていきたいと思います。

別表 第一尚氏王統系図

1.争乱の連続

 尚巴志は1416年に山北国を1429年に山南国を滅ぼして「琉球国中山」統一王権として成立することになります。この尚巴志による覇業が成ったことで大きな戦が終焉したわけでありませんでした。それは尚巴志の六男とされる尚金福が中山王に即位すると、奄美や喜界島(写真1)への征討が始まります。記録によると1440年代に頻繁に遠征を行っていたようで、尚金福の弟が征討の指揮を執っていました。

写真1 喜界島全景

 そして、1453年には王位継承をめぐる軍事衝突が勃発します。志魯、布里の乱と呼ばれるこの内乱により、首里城が広範囲で焼失したとされています。続く、1458年には沖縄本島内の有力按司を排斥した護佐丸、阿麻和利の乱が起こり、琉球王国による軍事行動が立て続けに起こりました。
 

2.第一尚氏王統滅亡の切っ掛けとなった征討

 1466年、第一尚氏王統の最後とされる尚徳は2度にわたって喜界島への征討を行いました。島民による必死の抵抗により多大な犠牲を出したものの、喜界島を攻略することができました(写真2)。この征討は尚徳王が2千の兵を率いて直々に指揮を執ったこともあり、莫大な戦費がかかったことで王に対する不満が国内で高まっていきました。1469年に尚徳王が逝去した直後に金丸によるクーデターが勃発し、王権が崩壊しましたが、この端緒は喜界島への征討にあったものと見ることができます。

写真2 喜界島島民が抵抗の拠点とした御殿の鼻

 史実かどうかは別にして、これを端的に表している説話があります。それは喜界島を攻略した尚徳王は戦勝報告のために久高島(写真3)へ行幸した際、島に住むクニチャサという名の女性に見惚れ、寵愛して首里城に帰らずにいたところ、この隙をついて金丸がクーデターを起こしたという久高島の伝承です。この伝承の最後には、尚徳王が首里城へ帰還できず喜界島へ逃れて間もなく生涯を閉じるとしていることから、征討した喜界島が自らの終焉の地になってしまうというオチがついています。

写真3 久高島全景

この伝承が示すように第一尚氏王統は戦が遠因となって終わりを迎えたとも見て取ることができます。
 

3.なぜ、軍事行動をおこしたのか

 このように第一尚氏王統が成立した当初から征討や内乱といった大規模な争いが頻発していたと言うことは、王国内における派閥争いや地域に根付く有力者である按司の権力が維持されており、王を中心とする絶対的な権力が確立されていませんでした。つまるところ、第一尚氏を頂点とした支配体制を確立するための方策として、思紹から尚徳までの間に様々な軍事行動を起こしていったと見ることができます。
 また、第3代から第6代にかけての国王は在位期間が4~6年と短く、長期的な政策が叶わなかったことにより、王国組織の充実を図ることができなかったと言えます。よって、第7代国王である尚徳王は喜界島征討などの性急な政策を推し進めていったことで、王国内における政局の歪が大きくなっていった結果として金丸のクーデターが引き起こされたとも見ることができます。
 琉球の歴史を俯瞰していくと、これまで触れてきたように15世紀初めから中頃にかけては戦乱が続く激動の時代であり、沖縄本島に初めての統一王権が成立して、国家が形成されていく中で試行錯誤をした時代であったとも見ることができます。      

                                  (沖縄県立博物館・美術館主任学芸員 山本正昭)

◆第一尚氏等のエントランス展示情報と学芸員講座情報

 令和7年9月2日(月)~28日(日)までの期間で沖縄県立博物館・美術館エントランスにて、尚巴志が王を正式に名乗って今年で600年目ということを記念した『尚巴志王統の系譜』の展示会を行います。詳細については後日、当館ホームページにて告知します。
 
 また、7月学芸員講座「第一尚氏王統期のグスク」を7月12日(土)午後2時から当館講堂にて行います。詳しくは下記URLをご参照ください。
https://okimu.jp/event/1747719789/









 

博物館班 山本正昭

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