1. 【国際博物館の日2024】首里城保護100 年記念-首里城保護と伊東・鎌倉コレクション

【国際博物館の日2024】首里城保護100 年記念-首里城保護と伊東・鎌倉コレクション

最終更新日:2024.05.14

 明治時代になると首里城は熊本鎮台分遣隊(くまもとちんだいぶんけんたい)の管轄下におかれていましたが、1909 年に首里区へと管理が移ります。しかし、老朽化(ろうきゅうか)によりボロボロの状態になっていた首里城をどう保存するか課題になっていました。そんな中、1910 ~ 1920 年代にかけて「沖縄神社」をつくる話が持ち上がり、今からちょうど100 年前の1924 年3月、いよいよ取り壊しが始まってしまいました。
 この取り壊しに関する新聞記事を東京にいた鎌倉芳太郎がたまたま目にします。鎌倉は前年までの沖縄滞在中に様々な調査を行い、その調査成果が認められ伊東忠太との共同研究として沖縄に行くことが決まった矢先の出来事でした。鎌倉は急ぎ伊東の研究室に向かい情報を共有すると、伊東は内務省神社局に出向き取り壊しの中止を要請します。この働きかけにより、沖縄県庁に取り壊し中止の電報が打たれ、首里城は取り壊しの危機をまぬがれたのです。
 これは、伊東が文化財保護法の先駆け的な法律である「古社寺保存法」整備の中心人物であり、なおかつ神社建築の第一人者であったため、神社局に強い影響力を持っていたからこそできたこととされています。
 琉球国王・尚家は、一連の出来事にとても感謝していたようで、鎌倉が5 月に来沖した際にはどこでも調査してよいとのお墨付きを与えます。こうして様々な場所で調査をすることができ、それらの記録は現在沖縄県立芸術大学や当館等に収められています。当館で収蔵する資料の中には沖縄戦で消失した「冠船之時御座構之図(かんせんのときうざがまえのず)」「冠船之時御道具之図(かんせんのときおどうぐのず)」の写本や、約600 枚の紅型型紙等があります。
 伊東は1924 年の一度しか沖縄に来たことは有りませんでしたが、仕事机には沖縄でもらったサンゴや標本がおかれていたそうです。伊東の死後、沖縄で集めたコレクションはご家族の好意により当館で収蔵することになりました。その中には、県指定有形文化財・朱漆巴紋牡丹沈金御供飯(しゅうるし ともえもん ぼたん ちんきん うくふぁん)や尚順(しょうじゅん)男爵からもらったと推定されている煙草入れ等の優品があります。
 1924 年の首里城保護は、二人の沖縄調査に大きな影響を与え、そしてその調査成果は今もなお首里城復興や沖縄の文化研究において大きな役割を果たしています。


伊東忠太(1867~1954)肖像写真
伊東忠太(1867~1954)肖像写真
(那覇市歴史博物館所蔵)


後年の鎌倉芳太郎(1898~1983)
後年の鎌倉芳太郎(1898~1983)
(那覇市歴史博物館所蔵)

学芸員 伊禮拓郎

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