最終更新日:2022.08.22
沖縄県立博物館・美術館では、7月20日から特別展「沖縄、復帰後。展-いちまでぃん かなさ オキナワ-」を開催し、約800点以上の資料や映像等を通して、復帰後50年の沖縄のあゆみを復興・成長・継承・存続等を視点に紹介しています。見どころも満載でじっくり観覧すると数時間かかるような内容です。
そこで、今回は数多くある展示の中でも復帰三大事業といわれる「復帰記念植樹祭」、「復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)」、「沖縄国際海洋博覧会」について紹介したいと思います。
植樹祭は、沖縄の祖国復帰を記念し、これを契機に緑化思想の普及高揚と国土保全に対する認識をいっそう深め、戦災で荒廃した沖縄の森林の復旧をはかり、森林資源の培養と緑ゆたかな住みよい郷土づくりを促進することを目的に、1972年11月26日に糸満市摩文仁丘の平和の広場一帯で開催されました。式典には県内外の招待者を含め、3890名が参加しました。県立那覇商業高校と県立浦添高校の吹奏楽部の演奏による国旗や県旗の掲揚が行われ(写真1)、先の沖縄戦で犠牲となられた御霊に対し黙とうがささげられました。次に、主催者を代表して屋良朝苗県知事が沖縄戦で県土が荒廃してしまったことを踏まえつつ、「緑化の重要性の普及啓発、住みよい環境づくりの推進、森林の公益的機能に対する世論喚起を3大基本方針として、いっそう緑化の推進に努め、若夏国体、海洋博を成功させ、平和で緑豊かな新生沖縄県の建設に全力を傾注していくことを誓うものである。」とあいさつしています。その後、記念はがきの贈呈、表彰、大会決議等が行われ、最後に参加者全員で3600本のリュウキュウマツの植樹が行われました。植樹祭のシンボルマーク(写真2)は岩手県の及川利臣氏による考案です。沖縄の「お」の字を図案化し、若木が強烈な南島の太陽の光を受けて、大地に根をふん張り、勢いよく伸び立つイメージを表現しています。
(写真1:「植樹祭会場」沖縄県公文書館蔵)
(写真2:「植樹祭シンボルマーク」)
1973年5月3日から6日まで、那覇市の奥武山運動公園陸上競技場をメイン会場に若夏国体が開催されました。全国から約6000名の選手・役員が参加し、「強く・明るく・新しく」(写真3)をテーマに21競技34種目の熱戦が展開されました。大会に先立ち、沖縄県では若夏国体の機運を高めるために県民運動が展開されました。まちを緑と花でいっぱいにしてきれいな郷土にする運動、礼儀正しく親切で事故のない安全で明るい郷土にする運動等が行われ、多くの県民が県外選手団を温かく迎え入れる準備を行いました。また、4月24日から開会式が行われる5月3日まで炬火リレーが開催され、総勢7619名のランナーが沖縄県内の各地をまわりました。炬火は竹富町波照間島の美底御嶽で採火されました。その場所には若夏国体採火の碑が建立され、「波の声も止まれ 風の声も止まれ くまや琉球三十六島の最南端 波照間の聖地 美底御嶽」と始まる祈りのことばが刻まれています。そして、5月3日いよいよ若夏国体が開幕しました。開会式では役員選手団の行進(写真4)の後に、炬火の点火、国旗・大会旗等の掲揚が行われ、大会長あいさつ、祝辞、歓迎のことばが続きました。歓迎のことばでは下地直美さん(当時与儀小学校)が「きょうの日をむかえるために、おうちや学校をきれいにおそうじしたり、公園や道路にも、お花を植えたりして、町をきれいにしてきました。日本の北から南から、この奥武山競技場に集まってこられた大ぜいの皆様のお顔を見ていると、わたしたちは、「ほんとうに、日本に帰ったんだなぁ。」と、うれしく思います。」と述べ、会場をわかせました。競技の方では、県選手団約800名が出場し、高校男子ボクシング、教員男子バスケットの他、ウエイトリフティング、個人相撲、一般男子弓道、高校男子剣道、個人体操の鉄棒において県勢が優勝をおさめています。現在でも、ボクシングやウエイトリフティング、バスケットボール等において県勢の活躍がみられますが、その原点は若夏国体だったと言えるのではないでしょうか。
(写真3:「若夏国体シンボルマーク」赤は強く、青は明るく、緑は新しくを意味している。)
(写真4:「若夏国体開会式」沖縄県公文書館蔵)
「海-その望ましい未来」をテーマに、1975年7月20日から翌年の1月18日までの会期で沖縄国際海洋博覧会が開催されました。復帰記念事業の締めくくりとして、また今後の沖縄観光の発展を推進する事業として多くの期待が寄せられました。半年の会期中に約350万人が訪れ、県内に住む方々の中にも足を運んだ方は多くいるのではないでしょうか。36か国、3国際機関、1非公式国が参加し、それぞれの国や地域の海洋文化の紹介に加え、これからの海洋開発や資源保護、環境保全等のあり方について工夫を凝らした展示やイベントが催されました。中でも大きな注目を集めたのが、未来の海洋都市をコンセプトにしたアクアポリス(写真5)で、総工費約123億円、高さ約32m、縦横それぞれ約100mの半潜水型浮遊式の世界最大級の海洋構造物でした。設計は菊竹清訓建築設計事務所と日本海洋開発産業協会、製造は三菱重工広島造船所江波工場が担いました。アクアポリスは一つの都市としての機能をもち、市長や市公務員が管理を担い、来場者を市民としてみなしました。また、発電・造水・汚水処理・ゴミ焼却・海洋牧場を備え、自給自足可能な都市として実験的な側面を有していました。次に、沖縄県が出展したものとして沖縄館が挙げられます。「海やかりゆし-波の声もとまれ風の声もとまれ」をテーマとし、海の恵みを得ながら暮らしてきた人々の生活文化や、大交易国家として繁栄した琉球王国の歴史や美術工芸等に関する資料が展示され、沖縄の素晴らしい歴史・文化、自然等が紹介されました。海洋博のシンボルマーク(写真6)は、大阪府の永井一正氏が考案し、円は人類の協調と平和を意味し、中央の白線は海洋に大きくうねる波、下のマリンブルーは広大な海、上のスカイブルーは海に接して、どこまでも広がる空を表しています。
(写真5:「アクアポリス」)
(写真6:「海洋博シンボルマーク」)
復帰後、沖縄県はこれまで紹介してきた三大事業に加え、通貨交換やナナサンマル等、その他多くの事業を通して本土並みを実現しようとしました。立ち遅れていたインフラ整備も進められ、生活における利便性も向上しました。復帰三大事業は復帰を祝福する催事であることはもちろんですが、1972年5月15日の新沖縄県発足式典で示された「平和で明るい豊かな沖縄県」を実現するための事業であったことも確かだと思います。植樹祭を皮切りに三大事業が開催されましたが、沖縄戦によって焦土と化した土地を再び緑豊かな島にしようという強い願いが植樹祭に込められていたことを考えると、植樹祭が復帰三大事業のトップバッターとして開催された意義はとても大きいことだと思います。
主任学芸員 宮城 修