最終更新日:2022.03.31
今年2022年は、1522年に首里城と那覇港を結ぶ真珠道(まだまみち)と国場川に架け渡した橋(真玉橋)の竣工を記念する碑が建てられてから、ちょうど500年になります。
琉球王国時代の首里と那覇を結ぶ幹線道路のひとつであった綾門大道(アイジョーウフミチ)から守礼門を通り過ぎると、右側に真珠道の起点である石門(イシジョー)がありました。「真珠湊碑文」はこの石門の西側に建立されたため、「石門の西のひのもん」とも呼ばれます。また石門の東側には、第二尚氏王統の3代目である尚真(しょうしん)王(1477~1526年在位)の事績を讃えた「国王頌徳碑(こくおうしょうとくひ)」が同じ1522年に建立され、「石門之東之碑文」ともいわれます。
「真珠湊碑文」に刻まれた文章からは、王府が真珠道と橋を整備した目的を知ることができます。それは、交通の利便性を高めることと、外敵から豊見城グスクと付近一帯の水源を守り、有事の際には首里城の軍勢と南部各地の軍勢を合流させ、速やかに那覇港南岸に配備させることでした。
また、同碑には、琉球の最高神女である聞得大君(きこえおおきみ)を始めとする神女たちや300人の僧らによる、真珠道の完成を祝って橋を供養する儀式が行われたことも記され、国を挙げての大工事だったことがわかります。
「真珠湊碑文」は戦災を受け、今は碑首と碑身の一部しか残っていません。2006年、首里城復元期成会が中心となり、残欠に加えて戦前に採られた拓本や写真等をもとに、全体が復元されました。同時に「国王頌徳碑」(石門之東之碑文)も復元され、しばらく首里城公園の首里杜館庭に仮設置されていました。その後、真珠道起点の整備・復元にあわせて、2つの石碑も本来の場所に戻りました。
さて、500年前に整備された真珠道は、現代ではどのような様子になっているのでしょうか。真珠道は、起点から南西方向に進む坂道を下って安里川に架かる金城橋を渡り、繁多川から坂道を上って識名・上間・国場付近を越え、国場川に架かる真玉橋を渡って国場川の南側を西に進んで那覇港南側のかつて垣花があった場所まで続いていました。土地利用の変化等によって消失してしまった部分もありますが、金城町の石畳道や金城橋のように、琉球王国時代の雰囲気を感じられる場所もあります。
真珠道は全長8キロメートル程度あったと推定されています。高低差のきつい場所もありますが、竣工から500年を迎えたこの年に、歩いてみるのもいい機会かもしれません。
主任学芸員 崎原恭子