1. 琉球王国文化遺産集積・再興事業「手わざ」展の背景と意義を考える(上)

琉球王国文化遺産集積・再興事業「手わざ」展の背景と意義を考える(上)

最終更新日:2020.03.16

博物館がもつ潜在力・求心力、さらに発信力の強化
 本年は戦後75年。この間、博物館は県民とともに復興の道を歩んできた。博物館がもつ力とは何であろう。なぜに、人は動植物の標本、歴史や美術工芸品、自然、人々のくらしの資料(民俗)の資料を収蔵するのか。それは人が歩んできた道を振り返り、その足跡から学び、さらには未来を創造するためにある。それゆえに、膨大な資料を適切に保存・管理するために温湿度を一定に保った収蔵庫や展示室、教育普及のための講堂等を備える。
 沖縄県立博物館・美術館(愛称・おきみゅ)の歴史は47都道府県の中でも特異である。博物館はこれまで立地場所を5度、施設名称を8回も変えてきた。そこには、沖縄が背負ってきた特異な歴史がある。
 沖縄戦の本島上陸日1945年4月1日。その日にニミッツ布告が発せられた。日本の沖縄への施政権が停止した瞬間だった。それ以降、1972年までの祖国復帰(復帰)まで、27年間沖縄は米国の支配下に置かれてきた。私事だが、学生時代(1978)上京した際、沖縄出身だと自己紹介したら、「日本語が上手ですね。」と褒められた。復帰以前の沖縄は、米国施政のもとで英語を公用語としていると誤解されていたことによる。
 沖縄戦では、いわゆる鉄の暴風によって県土は吹きさらされ、焦土と化した。本島南部では、6月下旬以降も「最後に一兵に至るまで果敢戦闘せよ」の最後の軍命によりゲリラ戦が行なわれていた。南部へ避難した住民は、ガマの中に身を潜めていた。1945年8月頃、本島中部では、戦後生活がすでに始まっていた。米軍によって旧石川市(現うるま市)東恩納の民家を活用し、沖縄陳列館という施設が設置されたのはこの頃である。翌年、その施設は沖縄民政府に移管され、地名に因み沖縄民政府立東恩納博物館と改称した。現博物館の館史の一頁がここから始まる。46年4月頃、収容所生活から解放された首里の人々によって、首里周辺の破壊された国宝建造物に付随する文化財の欠片が収集され、首里汀良のバラック小屋で首里市立郷土博物館が開館した。現在、当館の収蔵庫には、円覚寺仁王像の木片の欠片など当時収集された無残な文化財片が多くある。その後、この2館は統合され、沖縄民政府立首里博物館に、さらに琉球政府発足に伴い琉球政府立首里博物館に改称した。戦利品で米国へ渡った盗難文化財が「ペルリ来琉100周年記念事業」の名目で返還されたのは1953年のことだ。併設でペルリ記念館が建設され、首里城正殿や守礼門の模型が展示された。旧中城御殿跡に鉄筋コンクリート建ての近代的な琉球政府立博物館が誕生したのは、1966年のこと、復帰に伴い沖縄県立博物館になった。そして、復帰30年事業として、美術館を含めた複合的な施設の沖縄県立博物館・美術館がおもろまちに開館したのは2007年のことである。博物館の歩みは、収蔵資料の増加とそれらを収蔵するための収蔵庫の拡充、展示規模の拡大の歴史でもあった。
 復帰20周年事業で首里城は、戦後47年ぶりに復元された。それは沖縄の戦後復興のシンボルとして、2000年開催の九州・沖縄サミットの首脳たちの晩餐会の会場にもなった。当時、旧博物館で、サミットに合わせて、特別展「大琉球展」を準備したが、博物館の発信力は十分でなく、世間やマスコミの注目を浴びることはなく、苦い思い出として残っている。その時に、思ったことがある。収蔵機関としての博物館のもつ潜在力を発揮する、より一層のアグッレシブさが必要であると。人々にとって、博物館こそは興味関心や好奇心を喚起し、自身の文化的な出自を確認するアイデンティティ醸成を行なう「文化の胎」になる必要がある。さらに新たな文化創造の拠点としての求心力と発信力をもちあわせた文化観光の拠点にならならいといけないと。
主任学芸員 園原 謙


旧県立博物館の2000年開催特別展「大琉球―シマ、島、海-」の掲示物

 

主任学芸員 園原 謙

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