最終更新日:2016.03.24
写真1 武芸洞遺跡(ガンガラーの谷内)でみつかった炉あと。 粒径5cm大の石を敷きつめている。
写真2 炉あと1(現代) 炉辺に置石(腰掛け)とバケツ、 火かき棒がある。炉内には燃え残った薪がある
写真3 炉あと2(現代) よく焼けている。炉中には灰層がある。
写真4 炉あと2(現代) 灰層中に焼骨(▲)が見られる。
人類が火を利用するようになったのは原人の時代(100万年前頃?)と考えられています。 遺跡を発掘すると、写真1のような炉あとが見つかることがあります。一般的に、発掘された炉あとの周囲は焼けていて、地面が赤くなっていたり、石が変色していたりします。焼けた土とともに、白い灰や木炭(炭化物)が見つかることもあります。しかし、赤土の地面と砂地では炉あとの見た目に違いもあり、灰や木炭が見つからないこともあります。
発掘された炉あとが、本来どのような形で、どんな用途に使われたのかを復元することは簡単ではありません。考古学的な炉あとを解釈するためには、実際に使われた炉あとを観察し、それらがどのような状態になるのかを参考にしなければなりません。
沖縄島北部の海岸では、キャンプをした人たちが残した炉あとを見かけることがあります。今回は、そうした現代の炉あとについて調べてみました(写真2~7)。
写真2は非常によく整備された炉(炉あと1)です。炉の中には燃え残った薪(たきぎ)が残されていました。炉の外側には腰かけ用の置き石と、バケツ、火かき棒が設置され、この炉を残した人は、今後もこの炉を繰り返して使う予定なのでしょう。燃え残った薪は、立ち去る際に炉内の火が消火されたことを示しています。また、炉の底には平たい石が敷かれ、非常に丁寧なつくりになっていました。
写真3は、一般的な形状の炉あと(炉あと2)で直径1mほどのものです。周囲に積まれた石はよく焼けており、炉内には灰が分布しています。石囲いの一部には平たい大型の礫が使われており、何かを載せる台として使われたのかも知れません。
写真4は炉あとの内部の拡大写真で、灰層中に焼けた骨が含まれていました。食事のあとに出た食べ滓を投げ込んで燃やしたようです。おいしい食事のようすがわかりますね。
写真5は炉あとの断面で、上部に灰層があり、その下には焼けて赤くなった砂層があります。このように、地面の上で火を焚くと、地面が焼けて赤くなり、その上に灰が堆積します。先に紹介した「炉あと1」とは違い、この炉には木炭や薪の燃え残りはほとんど残されていませんでした。炉の火が消火されなかったため、薪は完全に燃え尽きてしまったようです。
写真6は、直径が2mを越える炉あと(炉あと3)で、調査した中では最大のものです。石で囲まれた炉内の火床は砂で埋め戻されていました。砂の上にはウシの大腿骨が残されており、何人もの人が、炉を囲んで食事したようすが伝わってくるようです。
写真7は炉あとの断面です。最上部には炉を埋め戻した際の砂の堆積があり、その下に黒っぽい炭化物層、さらに下には赤く焼けた砂の層、そしてその下には再び炭化物層と焼けた砂の層が重なっています。この炉あとは一度だけでなく、少なくとも2回使用されたものと考えられます。
以上は調査結果のごく一部ですが、20カ所ほどの炉あとについて調べてみたところ、以下のようなことがわかりました。
1.炉あとの形態
石積や石囲いをもつものが多い。地面の上で火を焚くものが多く、地面を掘り下げたものは少ない。また底に石を敷くものも見られる。炉の平面規模は50cmから150cm程度のものが多く、200cmを越えるものもある。
2.炉あとの周囲にあるもの
腰かけ用の石や箱などが目立ち、未使用の薪が残されている場合もある。炉あとの周囲は清掃されていてゴミは少ないが、炉の中に動物骨や野菜の切れ端、カン、ビンなどが捨てられ、燃やされている場合がある。
今回調べた炉あとは、おもに少人数のキャンプの際に営まれた、食事や暖をとるための短期的な使用を目的とした炉だと考えられますが、いろいろな形態のものが見られました。発掘調査で見つかる炉あとにも、いろいろな形態のものがありますが、それを残した人々が、炉のまわりで何をしていたのか、興味は尽きません。
主任 山崎真治