最終更新日:2015.03.27
図1 沖縄県旗写真1 与那国の龕(がん)
図1は沖縄県章及び沖縄県旗で、1972年日の本土復帰にともない制定されました。では、1972年以前、つまり復帰前のアメリカ統治下の沖縄にはこのような県旗の様なものはあったのでしょうか。 本土復帰前、つまりアメリカ統治下の沖縄はというと、1945年の米軍上陸から軍による占領統治が行われ、1950年12月には琉球列島米国民政府(USCAR:ユースカー;United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)に統治が替わって本土復帰まで行われていました。
その統治のもと名ばかりの住民自治政府が発足し、沖縄諮詢会(しじゅんかい)(1945年)→沖縄民政府(1946年)→琉球政府(1952年)へと移り変わっていきました。
このような中、1950年1月に沖縄民政府が「沖縄を象徴する旗」を定めようと、美術家協会にデザイン委嘱して、青・白・赤の三色を配し左上に白い明星をつけ採択しました。そして、当時の志喜屋孝信知事が「琉球の旗」とすると発表しましたが、住民がまったく関心を示さなかったため、立ち消えになってしまいました(図2)。
一方、米国民政府は1952年2月27日布令65号において、国際信号旗のD(デルタ)旗の端を三角に切り落としたものを「琉球船舶旗」に決定し、船舶の掲揚を義務付けました(図3)。
それは、国際法で通常、公海を航行する船舶は常時国旗を掲げることになっていたためです。アメリカ統治下の沖縄の国際法上の地位は不安定で、星条旗(アメリカ合衆国の国旗)も日章旗(日本の国旗)も掲げることができなったからです。
ところが、1962年フィリピンの南東にあるインドネシア領のモロタイ島北方海域で操業中のマグロ漁船「球陽丸」が国籍不明を理由にインドネシア海軍機から銃撃をうけて4人の死傷者を出すという事件が起こりました。(球陽丸事件)
この事件を契機に船舶の日の丸掲揚が政治問題化し、立法院決議を受けて政府も佐藤・ジョンソン会談にて問題提起しました。その結果、日米協議委員会で討議され、琉球(RYUKYUS)の文字が入った三角旗付日の丸を船舶に掲揚することができるようになりました。(1967年)
また、1957年に米国民政府においても民政長官・副長官制が廃止され、高等弁務官が置かれるようになると、その高等弁務官室に鷲の回りにThe High Commissioner of The Ryukyu Islandsという文字が刻まれた紋章の高等弁務官旗が掲げられていました(図4)。
今年で戦後70年を迎える沖縄ですが、このように旗を巡る歴史が存在したということです。
主任学芸員 石垣 忍