最終更新日:2014.07.31
琉球王国時代、人々は税(米)の一部を布で納めていました。時代や地域によって課税の方法や布の種類などが異なりますが、当館の常設展示室では、近世の八重山地方をモデルにして、糸作りから機織、洗濯、検査、納品までのプロセスを模型で展示しています。さて、この納品された布は、いったい、どうなったのでしょうか。この話の主役は、その布たちです。その足跡を追ってみました。
納めた布は、王国内で使われるものと、薩摩へ納めるものに分かれます。 国内では、国王始め王族、士族らの衣料となります。それだけではなく、中国や大和への献上、進上品としても使われています。2008年に開催された当館の特別展「甦る琉球王国の輝き」展で紹介された北京故宮博物院に残っていた紅型布は、宮古島から納められた木綿布に染めたものでした。また、中国や大和への使者となった者や功績のあった者への下賜品もあります。久米島、喜久村家に残る1759年製の紅型幕は、海難事故にあった冊封使一行の救助の功績により、国王から下賜されたものです。
では、薩摩に納めた布はどうなったのでしょうか?琉球王国と同じように臣下への下賜品に使われています(『嘉永六年 表方御右筆間日記』)。また多くは京都や大阪、江戸で販売されていました。
戦乱の世が終わり、江戸時代に入ると町方の人口が急激に増えていきます。そこには各藩から様々な物資が集まってきたようです。『和漢三才図会』(1712年出版)には、「芭蕉布(ばしょうふ)」が琉球の特産品として紹介され、「琉球柳條(しま)」の項では久米島紬(くめじまつむぎ)が評価されていた様子がうかがえます。琉球で織られた上布は、『守貞謾稿』(1837~1867年)によると「薩摩の紺がすり上布」として販売されていました。風流を解する者は、専ら夏服として着用したとあります。さて、値段はといいますと、三から七両ばかり。当時の他の織物は、奈良晒が一両、越後縮は九十匁とあります。これからすると、手績みの苧麻糸(ちょまいと)で織られた琉球産の上布は、今も昔も高価なオシャレ着だったのですね。
琉球の王家や士族達へ納める布は、現存する染織品をみると鮮やかな色絣です。ところが、大和御用として織られた久米島紬の色は煤竹、鼠色が最も多いことが分かりました(「貢布カナ入目(仮題)/吉濱家文書」)。
どうやら、琉球の人々は国内と大和のニーズをきちんと整理し、需要に合わせて布をつくっていたようです。敏腕のプロデューサーがその当時から居たのですね。
主任学芸員 與那嶺一子