最終更新日:2010.01.29
石棺墓上層人骨検出状況
韓国の石棺墓
台湾・卑南遺跡の石板墓群
沖縄県には化石の保存に適した石灰岩が広く分布しており、港川人をはじめとする人類化石がいくつも発見されています。この地質的好条件を踏まえ、沖縄県立博物館・美術館では、新たな人類化石の発見をめざした調査研究に取り組んでいます。平成19年度からは南城市武芸洞遺跡(「ガンガラーの谷」内)を継続的に発掘調査し、縄文時代前期(約6000年前)の爪形文土器の包含層や、縄文時代晩期(約2500年前)の石棺墓を発見しました。この間の経緯は以前このコラムでもご紹介しました。武芸洞では、昨年11月にも発掘調査が行われました。昨年は石棺墓下部の状況確認と、一昨年爪形文土器が出土した東側開口部の掘り下げ等を行いましたが、今回は石棺墓の調査について概要を紹介します。
一昨年発見された石棺墓からは、40歳前後の男性の人骨1体がうつ伏せに埋葬された状態で発見されました。人骨の腰の上にはシャコガイが、左足付近には殻頂部に孔のあけられたカサガイが副葬されていました。さらに、人骨の左前腕付近からは直径4mm程度の巻貝製ビーズが12個発見され、ブレスレットとして身につけられていたものと考えられました。
一昨年は、この人骨を取り上げた時点で時間切れとなり、調査を終了しました。その後、この人骨からコラーゲンを抽出し、放射性炭素年代測定(AMS法)を実施したところ、得られた年代値は約2500年前というものでした(非較正:近藤恵氏私信)。これは沖縄では縄文時代晩期頃に相当する年代です。武芸洞のものに類似した石棺墓が7基も発見された読谷村木綿原遺跡では、5号箱式石棺墓の副葬貝から約2520年前(Gak-7052)、1号箱式石棺墓の人骨共伴貝から約3420年前(Gak-7053)の年代が得られているので(『木綿原』読谷村文化財調査報告書第5集、1978年)、これらの年代値からすれば、石棺墓はおおよそ縄文時代後期から晩期に位置づけられるものと考えられます。
石棺墓と呼ばれる形態のお墓は、沖縄に特有のものというわけではありません。縄文時代晩期から弥生、古墳時代の九州でも、石棺墓がさかんにつくられていたことがわかっています。韓国でも、無文土器時代(3000~2000年前:※韓国の無文土器時代の時期幅については諸説あり)には埋葬施設として石棺が使われていました。台湾の台東県台東市卑南遺跡では、1000基を越える石板棺(石棺墓)が、豊富な玉製の副葬品とともに発見されています。卑南遺跡の年代については諸説ありますが、3400~2800年前とも考えられていて、台湾の新石器時代晩期に相当する文化です。このように、今からおよそ3000年前から2000年前頃に、東アジアの各地で石棺墓あるいは石棺墓に類似する形態のお墓が作られていたというのは、大変興味深い事実です。
東アジア各地の石棺墓は、いずれも穴の中に石を用いて長方形の囲いを作り、遺体を埋葬するという点でよく似た構造と言えますが、昨年の調査によって、武芸洞の石棺墓は、他地域の石棺墓とは異なる独自の構造をとることが明らかになりました。以下ではこの点について述べたいと思います。
昨年11月の発掘では、石棺内をさらに掘り下げ、石棺の全体像の解明をめざした調査を行いました。その結果、一昨年人骨が発見された地層よりも下から、続々と人骨が発見されました。石棺下部からは、少なくとも二体分の人骨が発見されているので、一昨年の一体を加えると、少なくとも三体分の人骨がこの石棺内から発見されたことになります。しかも、これらの人骨は散乱状態あるいは、棺内の隅に寄せ集められたような状態で、埋葬状態を保っていませんでした。骨化した後に、二次的に移動されたことは明らかです。棺の隅に寄せ集められた人骨は、ほぼ一体分の骨が揃っているので、棺内に埋葬され、骨化した後に、隅に取り片付けられたものと考えられます。なぜ骨は動かされたのでしょうか?
新たな死者を納めるために、古い骨は片付けられたのかも知れません。しかし、そうだとしても、追葬された死者の骨は棺内には残されていませんでした。一昨年発見された一体分の人骨は、これらの人骨よりも上から発見されていますから、石棺下部の埋葬行為が終了した後に、新たに上部に埋葬された人骨ということになります。どうも、武芸洞の石棺墓では、(1)石棺下部が埋葬に利用された段階、(2)石棺上部が埋葬に利用された段階、という二つの段階があるようです。そして、最終的に石棺墓は重層構造をとるようになったものと考えられます。
このように、石棺が重層構造をとる例は、東アジアを見渡しても非常に珍しいものです。九州や台湾の石棺墓では、一つの石棺墓が何度も繰り返し利用される事例は知られていますが、武芸洞のように重層構造をとる例は知られていません。沖縄・奄美の例では、徳之島の伊仙町トマチン遺跡で、墓床に底石を有する重層構造の石棺墓が発見されています。先に紹介した読谷村木綿原遺跡でも、上下に重なる石棺墓の例が知られています。このように、石棺墓が繰り替えし利用され、重層構造をとる例は、沖縄・奄美に独特のものと考えられます。なぜこのような構造の墓が生み出されるに至ったのでしょうか?その解明は、沖縄先史時代人の墓葬習俗を考える上で重要な鍵となるものです。あなたも一緒に考えてみませんか?
専門員 山崎 真治