2007年11月、沖縄県では戦前戦後を通じ初めての、県立美術館が開館された。コレクションギャラリーでは、明治時代・廃藩置県以降の沖縄の美術を体系的に収集し、展示している。本県では、全国的に知られた美術家はほとんどいないが、本土と異なる風土と歴史の中から培われて来た独特な文化を表現できる場を目指している。
数百年間続いていた琉球王府の絵師たちは、琉球処分により野に下った。絵師たちの中に南国の風物を描いた水墨の長嶺宗恭や風俗画を主に描いた比嘉盛清などがいた。しかしながら王朝絵画の伝統は、徐々に日本近代に飲み込まれて消えていった。
日本画系の画家は琉球王朝末期に広がりを見せ、昭和の時代まで続くが、彼等の仕事は後の世代は継承せず、わずか数名が携わるのみとなった 。その後山田真山が東京美術学校にて高村光雲に彫刻、後に日本画を学び帰郷。戦後も活動を持続した。代表作に聖徳絵画館の「琉球藩設置の図」、糸満市沖縄平和記念堂の観音像がある。真山のあとに続く日本画家として、流麗な挿絵を描いた金城安太郎や静ひつな美人画で知られる柳光観等がいる。
沖縄の近代美術受容のはじめに大きな影響力を持ったのは、明治の後期から日本本土より派遣された美術教師たちであった。明治34年には、東京美術学校1期生で西洋画科出身、白馬会に属する山本森之助が赴任。在任中に沖縄を題材にした作品を制作し、白馬会に出品している。山本の作品が最初の沖縄での本格的な洋画の紹介となった。大正11年には沖縄出身の比嘉景常が(1922)県立第二中学校の美術教師に赴任。昭和16年に没するまで、東京美術学校に多くの生徒を送り、沖縄の美術界をリードしていく美術家たちを数多く育てた。
昭和10年頃より比嘉の教え子であり、戦前戦後を通じて沖縄を代表する画家、名渡山愛順と大嶺政寛が活躍する。
両者とも熱烈な郷土愛を抱き、沖縄の原風景をテーマに描き続けた。
名渡山は、東京美術学校卒業後は古き良き沖縄=琉球を女性像に託して描き続けた。
大嶺は、春陽会を活躍の場とし、一貫して沖縄の本来の姿を風景描写に求めた。
二中出身には前二者の外、晩年は沖縄の神事に画題が行き着いた大城皓也や沖縄におけるシュルレアリスムの導入者ともいえる山元恵一がいる。
他に安谷屋正義、兼城賢章、古城宏一などがいる。
太平洋戦争は沖縄を完全に破壊し尽くしたが、戦後すぐに上記の美術家たちが中心になり、那覇市首里儀保に美術家の共同体「ニシムイ」が誕生する。彼等は米軍人相手の肖像画や、風景画を中心に制作する一方で、夜は芸術上の議論を良くした。
安谷屋正義は水平線と垂直線の交わる緊張感溢れる白い空間を追求した。
春陽会で活躍する彫刻家の玉那覇正吉、中学校美術教諭具志堅以徳、金城安太郎、創元会会員で沖縄の風土を抽出し、伸びやかな空間を現出した安次嶺金正等が、戦後初の美術グループ「五人展」を結成する。「五人展」は50年代を通じて活動した。
60年代を通じて城間喜宏、大浜用光、大嶺實清の三人による前衛グループ「耕」が活躍する。彼等は当時の本土の「具体」や「アンフォルメル」からの影響を大きく受けた。
日本復帰の前後には、永山信春、真喜志勉、新垣安雄等が、怒りをぶつけるように、野外での大規模なオブジェによる展覧会が行われた。それらの世界的な傾向を反映した前衛活動に対し、沖縄の固有性を探る流れが出て来た。
普天間敏は石膏版画という手法によって沖縄の風土をくみ上げた。喜友名朝紀は自らの地域の神事を主題に描き続ける。
80年代に入ると、中堅の作家がモダニズムを咀嚼し、力強い作品を発表するようになる。米軍廃材使用により、物質性と状況を取り込んだ豊平ヨシオ、壮大な闇のような抽象の山城見信、モノクローム絵画の永山信春がいる。
90年代から沖縄の美術シーンが活発になるに伴い、現代美術における若い作家たちの県外での活躍が目立つようになる。
絵画では知花均、与那覇太智。立体・インスタレーションでは、粟国久直、真喜志奈美がいる。
沖縄は人口比率でいけば、全国でもトップの移民県である。戦前戦後を通じて、アメリカ大陸に多くが渡った。
小橋川秀男はアメリカ生まれ、帰米2世である。90歳近くまで、少年のころの沖縄の記憶だけで膨大な作品を残した。
高江洲敏子は3世でニュージャージーに住むが、陶芸家としては米国の中でもっとも重要な作家の一人である。
ゴヤ・フリオは沖縄在住、アルゼン生まれの2世で彫刻家。フジサンケイビエンナーレやロダン大賞展などで入賞。移民ではないが、国外で活躍する作家も増えてきた。
比嘉良治はニューヨークを拠点とする写真家、美術家、ノースカロライナには小谷節也が版画を中心に活躍している。また、幸地学はパリ在住の画家・彫刻家97年度のグラミー賞イメージアーティストとして有名である。
ニューヨーク在住の現代美術家、照屋勇賢は、常に社会のシステムに感心があり、洗練されたアイデアと美しいフォルムによって、国際展の常連となった。
明治以来、いくつもの世替わりを経験した沖縄は、そのたび異なる文化と接触し、様々な芸術を生み出して来た。現在どちらかと言えば音楽や芸能などの無形の文化にその特性を見いだしているかのように見られがちだが、かつては漆器工芸、絵画などの美術工芸にもきわめて優れたものを持っていた。
最近の沖縄の美術状況を見ると、かつての美術王国が復活する可能性をも秘めている。美術館の活動がその多いなる一助となれば幸いである。