1. 館長あいさつ

館長あいさつ

ごあいさつ

 台風が沖縄を襲う暑い季節が過ぎ去りました。ようやく、涼しい秋風が吹き、気持ちよい朝夕を迎えることができる日々になり、野菜を植え付ける時期になったと実感しています。

 さて、10月1日から芭蕉布展が、大宜味村、喜如嘉(きじょか)の芭蕉布保存会と共催で、当館特別展示室で始まっています。展覧会でも案内しているように、琉球王国時代、芭蕉布は老若男女身分に関係なくすべての人が身につけることができ、宮古八重山から奄美諸島まで広がる布でした。その上、中国皇帝や日本徳川将軍に送られるような価値ある献上品でもありました。

 「芭蕉布」という歌には「上納ささげた芭蕉布」という一節がでてきます。しかし、芭蕉布は、献上品であるにも関わらず宮古・八重山の上布、久米島の紬にみられるような首里王府への上納品であったという資料を見いだすことができません。芭蕉は上木として芭蕉畑に米換算で課税されているだけです。一方、薩摩藩は奄美諸島に対して、芭蕉糸を上納するように命じています。そして、その糸を琉球王国に送っているのです。琉球側の担当者を芭蕉当(ばしょうあたい)と言います。では、奄美の芭蕉糸は琉球王府でどのように加工されたのでしょうか? 中国皇帝や徳川将軍に送られた芭蕉布はどこで作られたのでしょうか?

 真栄平房敬(まえひらぼうけい)さんは、『首里城物語』の中で、「上は王妃から下は女官に至るまで、宮廷勤務のあいまに絶えず苧を紡ぎ、手先を動かしていたのであった。王妃は主に苧麻(ちょま)を紡ぎ、御側御奉公や女官は芭蕉糸を紡いでいた。」と記しています。首里城内でも芭蕉糸は自給して、奄美の芭蕉糸からは始めていないようです。芭蕉糸はどこに行ったのかわからない困ったと思って奄美の故弓削政己さんの論考を読んでいると、宮古御藏では、宮古八重山から送られた物といっしょに諸士(士族)たちに支給されたとあります。奄美の芭蕉糸は士族たちの配偶者たちによって芭蕉布に織られたのでしょうか。藍を何重にも重ねた士族が正式につける黒朝衣(くるちょーじん)は配偶者たちの愛の軌跡なのかもしれませんね。

 芭蕉布は上納布であった。○か×か。前述してきたように、○でも×でもないですね。博物館・美術館が提供している物・事というものは○でも×でもない中に、面白さがあると考えます。「変だよね」を発見し、その変を解決するための方法を見いだし、ある答えを出したとたんに、新しい「変だな」が見つかる。世の中を豊かにしてゆく原動力はこのような人の認知の営みにあると考えられています。

 美術館では、11月1日から『〇(マル)でも×(バツ)でもないもの!』~「ARTと私」正解のない「教育普及」展~が始まります。美術を楽しむ世界を、最初に触ってはいけないとされてきた作品に「さわる」ってから始まります。ついで、音が聞こえる作品と出会う「きく」って、に繋いでいきます。「さわる」って、と「聞く」って、を経た上に「見る」って、がきます。きっと今までと見え方が異なるでしょう。そして、「向き合う」ってが作品と自分との対話の場です。最後には、この展覧会で得た気持ちを、言葉・手紙・絵に託して「つたえる」ってで、自分を凝縮・解放していただければと思っています。

 最後になりましたが、博物館・美術館が、前述してきたように「知と心の交流場所」となるよう、館長として力を及ばずながらつくしていきます。みなさま、よろしくお願い申し上げます。

2024年11月
沖縄県立博物館・美術館
館長 里井 洋一 

 

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