
長かった猛暑も和らぎ、雨も大地を潤し、作物栽培に適した季節がやってきました。私の畑に蓮華の種をまきましたが、やっと芽吹きました。春になったら花をすき込んで窒素肥料とする存念ですが、いまだ、蒔いた割には芽が出ず、うまくいくかどうかは不安です。
当館では、沖縄戦後80年博物館特別展「戦災文化財―失われた沖縄の文化財と取り戻した軌跡」が9月30日から始まっています。11月1日からは沖縄戦後80年企画「戦ぬ前(いくさぬめー)―沖縄文化の近代―」、11月22日からは沖縄戦後80年・ベトナム戦争終結50年祈念「ベトナム、記憶の風景」、12月23日からは「いのちのカタチ展―好奇心の標本箱」と、沖縄県主催の展覧会が続々展開されます。多くの方々に味わっていただければ幸いです。
さて、私が沖縄に来たのは51年前、1974年琉球大学への入学が始まりでした。米軍支配下の状況を熱く語る同世代の方々の暮らす沖縄、東アジアの中心、沖縄で、歴史を学んでみたいと考えたことが動機でした。入学すると、沖縄戦の事実を元に、「日本人」をルーツに持つ者の責任を問われました。この問いかけが、平和教育を研究テーマとしておいかける私の原点となりました。
さらに、史学科の同期と、仲原善忠の「琉球の歴史」(中学校社会科教科書)を読書会で沖縄認識を共有し、「沖縄の文学 高校生のための古典副読本」をテキストとする池宮正治先生が授業を受けました。池宮先生は「蛇皮線」ということに物言いをつけられました。私は1974年大阪から沖縄に来る船の中で読んだ山之口漠の「会話」の次の一節を思い出しました。
お国は?と女が言った。さて、僕の国はどこなんだか、
とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの連想を染めて、図案のような風俗をしているあの僕の国か!
ずっとむかふ。
池宮先生は蛇の皮を張っているという理由で「蛇皮線」ならば、日本のものは「猫皮線」ということになるね。と
「三線」といえば当博物館で毎年3月4日の三線の日に、誰でも参加をできる演奏会をしています。また、今年の3月20日には、集積再興事業ロゴマーク等発表イベントで三線の模造復元の紹介を行いました。集積再興事業とは 失われた琉球王国の美術工芸品を、最新研究をもとに模造復元し、その技術や文化を現代に蘇らせる事業のことです。復元された三線の糸は絹糸で、二オクターブ低いながらも人間国宝の中村一雄さんが深く味わいのある音を聞かせていただきました。このように今や「三線」が誇りをもって語られていることに隔世の感を感じます。
沖縄の三線には、ニシキヘビの皮が張られています。三線のルーツである中国の「三弦」もニシキヘビの皮が張られています。沖縄にはニシキヘビはいないのですが、日本は猫に変えたのに、沖縄は今もってニシキヘビの皮を使い続けています。琉球王国が明・清帝国から冊封を受け、中国市場と密接な関係があったことを想起させます。この明・清帝国から冊封を受けた時代を「唐の世」といい、1879年、日本に支配下に入った時代を「ヤマトの世」といい、1945年沖縄戦後米軍の支配下に入った時代を「アメリカ世」と言います。佐渡山豊は「ひるまさ変わゆるくぬ沖縄」(「ドゥチュイムニィ」(1973年)と歌い、○○世という意味を考えたくなったのも、琉球大学に入学した年でした。
19世紀、世界の大半は植民地となりました。植民地の歴史的体験は苦難であり、同時に支配的な文化を取り込む営みであったと考えることができます。沖縄は世界の多くの人々と共感しあえる位置にいると私は思っています。
首里城が2019年に焼失したことをきっかけに11月1日を「琉球歴史文化の日」とすることになりました。首里城は支配者の城であり、人々が王の威光を享受する儀礼の場で、儒教的な価値観を確認する場でした。しかし、首里城で生まれた文化は組踊に代表されるように地域の文化として様々な形で独自な文化として取り込まれてもきました。
先述した「戦災文化財―失われた沖縄の文化財と取り戻した軌跡」を見られた方からは、沖縄戦によって破壊された首里地域の写真をバックに発見された多くの文化財が展示されている構成に心を動かされたという感想をいただきました。
戦後まもなく、「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を拾い集めることが私たちの博物館・美術館の営みの始まりでした。そして、拾い集めて蓄積した様々な文化財を分析研究する集積再興事業で生まれた知見が、首里城再建に生かされるだけでなく、新たな沖縄文化の創造に貢献していくという展望を私たちは持っています。先述したように、戦後80年、博物館・美術館ともに様々な展示企画があります。ぜひ、多くの方々に来館いただき、博物館・美術館を文化が交流しあう場にしていきたいと思っています。
2025年12月
沖縄県立博物館・美術館
館長 里井 洋一