1. 首里城を救った男たち 伊東忠太と鎌倉芳太郎 「第1話 伊東忠太(~1923年まで)」

首里城を救った男たち 伊東忠太と鎌倉芳太郎 「第1話 伊東忠太(~1923年まで)」

最終更新日:2023.11.28

 今から100年前の1923年、伊東忠太と鎌倉芳太郎による琉球・沖縄文化の共同研究が始まりました。このことを記念し、2023年8月22日~11月19日にかけて、当館常設展美術工芸部門展示室において「首里城を救った男たち 伊東忠太と鎌倉芳太郎~共同研究開始から100年~」と題した企画展示を行いました。展示会もそうですが、展示解説会や学芸員講座などにも多くの方にお越しいただき、担当としてとても嬉しく思います。
 学芸員講座のアンケートの中で、今回の内容を見られるようにまとめて欲しいとの要望がありましたので、コラムという形ではありますが何回かに分けてまとめていきたいと思います。
 第1話目の今回は、共同研究が始まる前までの伊東忠太先生に焦点を宛てたいと思います。
 

幼少期の忠太 ~美術への興味関心~

 忠太先生は、1867年に現在の山形県米沢市でお生まれになりました。先生の幼少期については、日本建築学会のHPで公開されている『忠太自畫傳 上』で知ることができます。
 この本は先生ご自身が幼少期についてまとめた本で、勉強はできたものの腕白だった幼少期について知ることができます(実際に読んでみると、本当に腕白だなと思います(笑))。また、書画や彫塑など美術に興味があったと書かれていますが、父親に反対にあったことも書かれています。
 

大学進学 ~建築研究の道へ~

 美術に心惹かれながらも、父親の反対もあい工学の道に進むことになりますが、工学の分野でも美術の世界に近かろうということで帝国大学工学大学造家学科に進学します。1892年には同学大学院に入学、1898年に卒業しました。
 在学中の1894年には、「造家」と訳されていた英語の「Architecture」を改めて検討しなおし、「造家学会」を「建築学会」へ改称するきっかけを作りました。「建築」という言葉は、忠太先生が作った言葉だと言われています(実際は別の人が提唱したという指摘もあります)。

伊東忠太肖像写真 (那覇市歴史博物館所蔵)  
伊東忠太肖像写真(那覇市歴史博物館所蔵)
 

研究者としての歩み

 大学院在学中から平安神宮の技師や内務省古社寺保存会委員等を歴任し、1898年には造神宮技師兼内務技師となりました。1899年からは東京帝国大学(現在の東京大学)の准教授となり、1902年からはたびたびアジアを中心に欧米へ実地調査に訪れました。
 そんな忠太先生が若き日の鎌倉芳太郎青年と出会うのは、定年間際の1923年のことです。
 

(第2話 鎌倉芳太郎(~1923年まで)に続く)
 

 

学芸員 伊禮拓郎

シェアしてみゅー

TOP