1. ウチナーンチュは博物館をいかにつくってきたか -戦後とともに歩んだ博物館70年のあゆみをふりかえる-

ウチナーンチュは博物館をいかにつくってきたか -戦後とともに歩んだ博物館70年のあゆみをふりかえる-

最終更新日:2016.11.22

沖縄県立博物館・美術館は、来年で開館10年目を迎えるが、博物館に限っていえば、今年は、戦後まもなく〔1946年(昭和21)4月〕誕生した沖縄民政府立東恩納博物館から数えて、70年目を迎える。人で言えば、古稀を迎えたことになる。

博物館という機関やコンセプトは、近代的な思想によってできたものである。意外と法的な根拠ができたのは遅く、1951年(昭和26)に公布された「博物館法」である。今でこそ、私たちは、博物館が存在することを当たり前のように考えているが、もしなかったと仮定すると、私たちの自然に対する学びや歴史や文化観などは変わっていたかもしれない。どのような影響を与えたかは、計り知れない。

博物館という館がめざす理念は実は壮大である。人間の一生は100年を超える程度のものだが、博物館が取り扱うモノは、特に当館に関していえば、約20億年前から現代までの悠久の時間と空間を超えると同時に、幅広い学問的な分野を扱っている。自然の産物や人々の営みを、資料(モノ)を通して体系的に見ることができるのが、その魅力のひとつである。

今日の博物館活動は資料収集、調査研究、展示、教育普及の4つの活動からなるが、各活動は個別に独立しているわけでなく、つながりを持って、お互いの活動を補完しあっている。とりわけ、収蔵機能は、博物館が博物館であることの存在証明のひとつで、その収蔵庫は、学術研究資料の宝の山といえる。各時代を超えて、その時代を代表するモノが適切な環境下で保存されており、これら資料は、次代や次々代へ引き継がれなければならない貴重な遺産である。博物館は、いわば時空を超えた資料の「タイムカプセル」としての重要な使命をも持っている。

時代をさかのぼると、戦前にも博物館は存在していた。1938年(昭和13)の博物館数は、国内で353館があった。日本博物館協会の前身の博物館事業促進会が1933年(昭和3年)に誕生し、図書館令〔1899年(明治32)制定〕のように、博物館令づくりをめざしたが、日本は戦時下に突入したため、その実現は戦後になってしまったのである。

沖縄県でも、沖縄県教育会(教職員によって構成された団体)によって、1936(昭和11)年に首里城北殿を改修して、沖縄県教育会附設郷土博物館が設置され、沖縄における唯一の本格的な博物館が誕生し、資料収集と展示活動を行っていた。しかしながら、沖縄戦によってその博物館が収蔵していた資料は散逸し、その一部は米国で見つかったりした。

また、それ以前は、教育参考館という施設があった。その一義的な目的は、学校教育の資質向上を図るためのものであり、児童生徒の図画や作文をはじめ先生方の教授法による作図、地域の古器物などが展示された。実は学校と博物館は、密接に関わった歴史がある。  戦後、博物館は王国時代の文化遺産やその欠片を収集して、博物館活動が始動した。米軍によって、本島中部石川の東恩納に沖縄陳列館が誕生したのは1945年(昭和20)8月のことであった。今日、当館を代表する資料で、旧首里城正殿鐘(万国津梁の鐘)があるが、戦後いち早く収集されたもののひとつが、この鐘であった。

一方で、戦後収容所生活を半年余り強いられた人々がそれぞれの村に帰還が許され、首里の有志によって、首里汀良に首里市立郷土博物館が設置された。そこには、傷つきながらも戦火を免れた円覚寺放生橋欄干羽目や玉陵石彫獅子や梵鐘をはじめ、円覚寺仁王像の欠片などが収集された。そして、二つの博物館は1953年(昭和28)には首里当蔵にレンガづくりの平屋の施設に移転統合された。さらに1966年(昭和41)には首里大中の鉄筋コンクリートの近代的な建物に移転した。1972年(昭和47)の祖国復帰を迎え、博物館は2階部分を増築し、展示の充実強化が図られた。そして建物の老朽化と収蔵資料の増加にともなう収蔵庫の狭隘等の理由により、2007年(平成19)美術館をあわせた博物館・美術館がおもろまちに新築移転した。

1950年代当時、沖縄戦で多くの文化遺産を失ったため、博物館スタッフは、資料収集のために全国キャラバンキャンペーンで資料の収集に奔走した。その結果、県内外の人々のご厚意により、琉球・沖縄ゆかりの資料が収集された経緯がある。また、復帰後は、後発ながら自然史部門ができ、総合博物館としての道を歩んできた。

当館の70年間の資料収集の状況をみると、1951年(昭和26)当時600件余りの資料が、今日約10万件以上のコレクションを数えるほどになった。そして、その中には1件2万点を超える動物化石のコレクションなどが含まれたりする。開館当初から考えると、想像を超える膨大なコレクションを抱えるまでになった。

70年間の歴史を振り返ると、設置場所を5ヶ所変わり、名称を8回変えてきた。これほどの回数は、全国でも稀である。そのことは、沖縄の戦後史と直結する。博物館の館名が、戦後沖縄の歴史を表しているのだ。

戦後71年目を迎え、私たち博物館スタッフは、多様な県民ニーズをうけ、県民に愛され、誇れる博物館づくりを模索している。来年の企画展「博物館70年のあゆみ」展は、70年前に博物館づくりを始めた人々の思いと意志に立ち返り、それを踏まえた上で、これまでの博物館活動の画期について、それを雄弁に語る「モノ」で表す展示を試みると同時に、今日求められる博物館活動のあり方についても示す機会にしたい。

  • 1946年に沖縄民政府に移管された 沖縄陳列館(沖縄民政府立東恩納博物館)

    1946年に沖縄民政府に移管された
    沖縄陳列館(沖縄民政府立東恩納博物館)

  • 首里市の人々によって設立された 首里市立郷土博物館

    首里市の人々によって設立された
    首里市立郷土博物館

二つの博物館は首里当蔵の新館に1953年に統合され、沖縄民政府立首里博物館になった。さらに琉球政府発足により、琉球政府立博物館に名称を改めた(1966年10月まで)







 

博物館班長 園原 謙

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